永井均著『これがニーチェだ』2023年11月05日 00:21

 ニーチェについての解説書、入門書。
 「ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大な哲学者にしている、と私は思う」(p.7)。
 「ニーチェは巨大な問題提起者で、他の誰一人として問うことがなかった問いを独力で抉り出した人である。だが、その問いに対して、自ら出した答えは、概して成功していない。いや、そもそも答えるなどということが不可能なほど巨大な問いにからめ取られてしまった、という方が正確なのだと思う」(p.8)。
 「彼は、それまで誰も問わなかったひとつのことを、そしてその後もまた誰も問わなくなったひとつのことを問うた。つまり、彼は余計なことをしたのだ」(p.9)。
 「その仕事の意義を評価する価値基準そのものが、その仕事のなかではじめてつくられた。(略)あたかも時代が彼を必要としたかに見えるのは、彼の仕事の結果なのである。彼を評価する人々の評価の枠組みは、じつは彼の仕事によってつくられたのである」(p.9)。
 「自分で自分をよいと感じる、力のある者のこの自己肯定の感覚、為した業績や他人による評価に基づかない自分の存在そのものに対するこの自己肯定の感覚、それをニーチェは「貴族的価値評価」と呼んで、「僧侶的価値評価」と対比したのである」(p.94)。
 「僧侶的価値評価の源泉は、直接的に自己肯定している強者に対する、それができない弱者の羨みと妬みと僻みにある。だから、その本質は他者を否定することによる間接的な自己肯定である。このとき、弱者は強者を直接的に否定するのではない。つまり「あいつらは本当は力がない」といったかたちで、すでにある価値空間の内部で相手を貶すのではない。そうではなく、「力がある-ない」といった価値空間それ自体を実質的に否定できるような、別の空間をつくりだすのである」(p.95)。
 「だが、金づかいのあらい者が金持ちであるとは限らないように、力を発揮している者が力ある者であるとは限らない。また、金を欲しがる者、「金への意志」が強い者は、金持ちよりは貧乏人であることは、むしろ常識に属するであろう」(p.137)。
 「充溢した力は現われる必要がない。満ち足りた者、自分の内部に欠如を感じない者、自分の外部に自分を否定する敵の存在を感じない者は、強い力を持っていてもそれを強く発揮する必要がなく、それゆえ自分の持つ力を意識しない。力を意識する者、力を発揮せざるをえない者は、力の弱い者である。力への意志は、満たされなければ満たされないほど、さらに強く発動し続ける。(略)発動のこの持続的な力強さは、発動主体の力弱さの指標ではあるまいか?」(p.137)。
 「貧乏人のパースペクティヴからは、すべての人間がもっと金持ちになりたがっていて、それには例外がないように見える。人間の行動のすべてはそれで説明がつくように見える。そう見えるのはじつは自分が貧乏人であるからにすぎないという真理は、そこからは見えない。同様に、力なき者のパースペクティヴからは、世の中のすべては「力への意志」で説明がつくように見える。そこからは、その外に別の空間があることが見えない。別の可能性を見るためには、その外に出なければならない。だが、第二空間の中では、それを勧める推奨語として残されているのは「真に力ある」といったものだけであろう。第二空間は、この意味での「力」において----強い「力」を持つものは強い「力への意志」を持つものではないという事実への覚醒において----かろうじて第三空間と接触することになるのだ」(p.146)。
 永遠回帰について「そうではない。来世はないのだ。これは、それがないということの強調なのである。私は、この生以外の生を生きる可能性はない。たとえ何度生まれたとしても、この人生しか生きられない。たとえ何度生まれたとしても、というこの譲歩は、この人生しかないという事実の強調のための譲歩なのである。だから、見かけに反して、回帰思想は来世があるという考え方の対極にある」(p.171)。
 「たとえどれほど惨めな人生であっても、それがたまたま自分の生であり、それがなぜか存在したということ、そのことに外部からの評価を加えることはできない。それがそのように存在したということ、そうであったこと、それがそのまま価値なのである」(p.173)。
 「これは究極の真理だと私は思うが、世界の中で人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない。同志を募るような種類の「思想」ではないのだ。(略)このうえない孤独の中でのみ、つまり群棲の様態においてではなく独在の様態で捉えられた人間にとってのみ、それはかろうじて意味を持つ考え方なのである」(p.174)。
 結びの言葉にはこうある「これが私のニーチェだ。本当のニーチェでも、嘘のニーチェでもなく、私のニーチェだ。きみのニーチェはどこか?」(p.219)。

永井均著『マンガは哲学する』2023年11月05日 22:52

 漫画の中に現われる哲学的主題について解説したもの。「この本は二兎を追っている。マンガ愛好者には、マンガによる哲学入門書として役立つと同時に、哲学愛好者には、哲学によるマンガ入門書として役立つ、という二兎である」(「まえがき」p.3)。主題別に分けられていて、扱われている主題は、意味と無意味、私とは誰か?、夢、子どもvs.死、人生の意味について、われわれは何のために存在しているのか、の七つ。俺が一番面白かったのは、萩尾望都「半神」などを扱った「私とは誰か?」の章であろうか。自己同一性の混乱がどうも好きらしい。

永井均著『私・今・そして神 開闢の哲学』2023年11月10日 22:13

 哲学解説書。デカルトの「我思うゆえに我あり」は、どのような主体もみなそれぞれに「我思っている」という意味で一般化される。しかし、実存としての私は一般化されることはない。私と他者は交換不可能である。私と他者の違いは決定的である。永井均の話は常にそこから始まる。世界は私とともに開闢し私の死と同時に世界消滅する。
 どうしてここにいる俺が俺で、あいつじゃないんだろう。少なからぬ子供が持つ疑問である。あいつにも自分と同じような心があって、自分と同じように世界を見て何か感じている。それになることはどうしてできないのか。そして「交換したらどうなるか」を想像して震え上がったりする。そういう気持ちは大人になると忘れてしまう。記憶していてもそれは他者の気持ちのようにしか思い出せず、我がこととしてありありと思い浮かべることができない。ごく一部の人たちだけが、その気持ち、自分は自分から出られないということの不思議と孤独と恐怖と安堵のリアリティを再現できる。判る人には説明不要で、判らない人には百万言費やしても判らない。
 世界は私によって開闢し構築されるが、私はそうやって構築された世界の中に位置づけられるという循環。卵が先か鶏が先か。この二重構造は、現在という世界にも、今という時間にも適用できる。
 「あるとき、この世界が世界Rと世界Lに分裂したとしよう。どちらが現実世界であるかは、分裂後にどちらの世界に私がいるかで決まる」(p.123)。
 「私」の自明性と絶対性。

古川日出男著『の、すべて』2023年11月16日 22:35

 四六判で五百頁を超える大長編。ある世界的な美術家が、後に総理大臣となる一人の政治家の伝記を書いている、という体裁で物語は進む。主人公は東京都副知事の息子の大澤光延。その他に代々巫女の家系に生まれた娘とか、巨大な製薬会社の娘とか、学習塾の敏腕経営者とか、仏教系新興宗教の家系とか、庶民とは呼べない階層の人たちばかりが登場し、皆性格もエキセントリックで感情移入できない。最初は恋愛小説のように展開するが、光延が巫女の娘である讃(たたえ)に一目ぼれする辺りから、オカルトの匂いがし始めて、令和の『帝都物語』の路線かと思ったりもするが、そっちの方にも行かず、物語は意外な展開を始める。
 なんと途中で主人公が光延から語り手の美術家に代わってしまう。俺が好きな場面は、伝記執筆のため、インタビューなど取材活動を続ける美術家が、西新宿から黄泉の国へ迷い込むところである。これは単なる幻視ではなく、現実の世界を美術家特有の視線で直感的に解釈している、というようなことらしい。その後、美術家に死者が憑りついて二重人格化するが、これも、強烈な自己暗示のように読めないこともない。この辺の、オカルトが現実と断絶していない、地続きになっている感じが面白い。そう言えば、現生と黄泉の国をつなぐ黄泉平坂の話題なども出てくる。
 重要な挿話として、光延がテロリストに襲撃される。この作品の雑誌連載が始まったのが二〇二二年の一月号で、テロの設定は最初から決まっていたように読める。そして同年の七月に安倍晋三銃撃事件が起こる。その背後には新興宗教の問題が関わっている。現実が虚構を追いかけて来る共時性。
 光延は神話を現代に接続する気概でスサノオを名乗り、日本の頂点たる総理大臣を目指す。ここも共感できないところで、光延に独自の理想などはなく「新たな保守」という抽象的なお題目を唱えるだけである。物語ではそれになぜか日本市民は熱狂するのだが、今の日本人は、例えばかつて小泉純一郎に向けたような熱狂を総理大臣に向けたりしない。誰が岸田文雄を日本の指導者として敬っているだろうか。
 じゃあ政治家以外に誰か居るかというと、どうも見当たらない。九十年代には、ビートたけしや坂本龍一などの筑紫哲也が「若者たちの神々」と呼んだカリスマ的タレントが居た。今はそういう人は居ないようである。それが現れそうになるネットの誹謗中傷でつぶされてしまうのかもしれない。
 現在を描いているので、コロナ禍は重要な要素として扱われているが、あまり巧く取り入れられているようには感じなかった。もちろん、俺が読めていない可能性はある。

永井均他著『<私>の哲学 を哲学する』2023年11月21日 22:51

 この本の成立過程については、上野修による「あとがき」が非常によくまとまっているので、ちょっと長いが引用しておく。
 「二〇〇九年三月七日、大阪大学21世紀懐徳堂で公開シンポジウム「<私>とは何か--永井均に聞く」が開かれた。古荘真敬の司会で、パネリストは入不二基義、上野修、青山拓央、そして永井均。(略)会場はあっという間に聴衆で埋められ、長時間にわたって議論がなされた。本書はそのシンポジウムの記録を中心としている。/本書の構成は三つの部分からなる。まず、シンポジウムがめぐっていた問題の基本構造の、永井自身による提示。いわゆる永井均の独在的<私>の問題である。次にシンポジウム本体の記録。(略)そして最後に四人の後日考。これはシンポジウムを振り返りながら、各自があとで、めいめい勝手に書いたものである」(p.368)。
 書名にもシンポジウムにも「<私>の哲学」とあるが、「いわゆる永井均の独在的<私>」の逆説を直接的に論じるのではなく、関連する問題として「現実あるいは<現実>」について多く議論がなされている。<私>自体はちょっと行き詰まっているので周辺から攻めている、のかな、という印象を持つ。永井均的な思考の流れでは、<私>と<今>と<現実あるいは世界>は並行的な構成を持つので、重要だし、問題の突破口となる可能性はある。今回はならなかったけど。
 そもそも永井均の<私>は、本来非言語的というか前言語的というか、言語的でない問題を言語的に解決しようとしているので、最初から無理なのである。解決しないから考えても意味がないかというとそんなことはなく、結果ではなく過程に意味がある、というのが永井均の言う「哲学する」ということなのである。考えることが面白い。
 討論の場面では、入不二基義が主張した「無内包」という概念が議論の中心の一つとなる。「内包」というのは、言葉の意味や概念のことだが、チャーマーズはこれを「第一次内包」と「第二次内包」に分ける。第一次内包とは、例えば水なら「味も匂いもしない透明な液体」というような日常的な言い方、第二次内包とは、「酸素と水素の化合物」というような科学探求的な言い方のこと。永井均はこれに「第〇次内包」を加える。第〇次内包とは、概念化以前の感覚的実感的な水。水のクオリアに近い内容である。入不二基義はこれをさらに延長したものとして、「マイナス内包」と「無内包」を加える。マイナス内包は潜在的な内包と説明される。そして、無内包は「いかなる内包も関与してこない」いわば、内容がなくて内包という形式だけがある、純粋内包とかメタ内包のようなものらしい。
 無内包については肯定的否定的様々な意見が出されるが、この問題に限らず、俺には全体に「言語が強すぎる」印象。分析哲学以降の流れで「哲学的な問題は全て言語の問題として解決できる」という雰囲気が濃厚なのだが、もうちょっと「感覚」を重視しても良いのではないか。意識が言葉によって構造化されているとすれば、無意識(身体と言ってもいいけど)は感覚によって構造化されている。そして、言葉は「同じ」と言い、感覚は「違う」と言う。