村松圭一郎著『旋回する人類学』2023年08月01日 22:55

 人類学の学説史を一般向けに解説した本。この本で俺は初めて人類学の全体像が見渡せた気がする。大雑把に言うと、人類学は「近代西洋」が「未開文化」を研究する学問として誕生したが、この二者の断絶或いは対立を解消し、近代西洋も対象として含めた「人類の学」を確立する過程として展開していった。そしてその葛藤は今も続いている。
 「本書では、文化人類学の古典と現代の研究とを行ったり来たりしながら、この学問がどう変わり、いまはどんな地平に立とうとしているのか、探っていこうと思う」(p.2)。それが題名の「旋回」の意味である。
 初期の人種主義から「人間の振る舞いは遺伝ではなく、文化によって決定される」という文化相対主義へ。そこには西洋の自民族中心主義(エスノセントリズム)を乗り越えようという意志がある。レヴィ=ストロースは文化の表面的な差異の奥にある普遍的構造を見出そうとした。
 サイードの『オリエンタリズム』などをきっかけに「人類学者だけが異文化を科学的テクストに翻訳できる」という特権性、すなわち権力関係が批判され、人類学は他者を理解できるのか、という懐疑が深まっていく。そもそも他者理解は可能なのかという問いである。
 ヴィヴェイロス・デ・カストロの「パースペクティヴ主義」や岩田慶治の「ネオ・アニミズム」では、人類学者が研究対象を科学的に分析するのではなく、その人びとの見方自体をみずからの思考の様式として、生き方として、実践していく。いわば人類学は「科学から下りる」。当然、このような態度は、人類学の思考様式に跳ね返り、更に世界に新たな思考様式の可能性を示唆することになる。
 「人類学はどんな学問なのか。それはこの硬直した世界に揺さぶりをかけ、つねに別の可能性を開いていく変革の実践である」(p.234)。
 この本を読み終えて俺が考えたことは、人類学は科学から下りることで、科学を文化の一つとして研究対象とすることを可能にしたが、「人類から下りる」ことは不可能であろう、ということである。世界は人類以外のさまざまなものが参加して動いているが、人類の外に出てそれを眺めることは不可能である。その辺が人類学の新たな限界となるのではなかろうか。
 そしてそれは、自然科学において、相対論では観測者によって同じ出来事が違って見えることや、量子論の観測問題などに重なるところがあるような気がするのである。

『河合隼雄の幸福論』2023年08月02日 23:07

 幸福に纏わるエッセイ集。幸福そのものを主題としたものよりも、周辺の話題を扱ったものが多い。
 「「幸福」というのは、なんだかイジの悪い人物のようで、こちらから熱心に接近していくと、上手に逃げられるようなところがある」(p.4)。
 「現代人の生き方の難しいところは、時間に従っていきながら、それに縛られたり、追いかけられたりしない、ということであろう。その対策のひとつとして、時には「時間を忘れ」たり、「時間にこだわらない」生き方をする「時」をうまく確保することであろう」(p.18)。
 「適切な礼を言う、ということは、その人が自立的になったことの標識と言ってもいいだろう」(p.33)。
 「人間は合理的な存在でもあるし、非合理的な存在でもある。この両者をつなぎ、全体として生きていくためには、人間は「儀式」ということを必要とする」(p.48)。
 「ところが、「形骸化した儀式」ほど無意味なものはない、というのも事実である。形だけが残って、そこにはたらくはずの不思議な力が働かない」(p.48)。
 「しかし、それではわざわざなぜ「私はどうでもいいのですが」などと人はよく言うのだろう。それは、もし自分にとって大切なことと考えると、先ほどの例のように、自分の気がつかなかった側面に気づくというような「仕事」をしなくてはならないので、なるべくエネルギーを費やさないように----つまり、端的に言うと逃げる方向に----人間の心ははたらくからではなかろうか」(p.60)。
 「人間は身体的存在であるとともに精神的存在でもある。精神的存在としては、(科学的事実よりも)それにふさわしい空想の方が意味を持つことがある」(p.63)。
 「シャーロット・ゾロトウ文、アニタ・ローベル絵、みらいなな訳『おかあさん』(童話屋)という絵本がある。これは、幼児がお母さんの写真を、赤ちゃんのときから成長して結婚に至るまで順番に見ているところが描かれている。そして、お母さんの姿のところに、「あのね おかあさんは わたしに あう ひをたのしみに ずっと まっていたんですって」とあり、つぎのページは、お母さんに抱かれている赤ちゃんの写真。「そしてね それから わたしが きたの----あかちゃんになって----」で終わりとなる」(p.64)。
 「詩人の工藤直子さんのエッセイ集『ライオンのしっぽ』(大日本図書)を読むと「触れる」ことの大切さが実感される。「カタツムリの目玉、いるかのおでこ、ごりらの背中、ねこの前脚のくるっと曲がるところ、こがねむしの柔らかいほうの羽、ふくろうの首のまわりの羽の、ふわふわ、ラッコのおなか、たつのおとしごのシッポの先、……」。これは何かというと、工藤さんが「見ていて思わず触りたくなるものたち」なのだそうである」(p.115)。
 「「待つ」力のない者は人を指導できない」(p.201)。
 「幸福ということが、どれほど素晴らしく、あるいは輝かしく見えるとしてもそれが深い悲しみによって支えられていない限り、浮ついたものでしかない、ということを強調したい。恐らく大切なのはそんな悲しみの方なのであろう」(p.245)。

養老孟司・名越康文著『二ホンという病』2023年08月04日 00:11

 日本についての対談。「コロナやウクライナ侵攻といった時事的なテーマにはじまり、南海トラフ、脳科学、宗教観、自然回帰、多様性、死と再生など、枝葉はどんどん広がりました」(p.12「この本ができるまで」)。
 日本の社会の在り方について。養老「日本人はその辺を楽天的に考えて、変えなくていいことにしようとしてきたわけです。本質にかかわるところは変えずに、表層的なところだけを変えてきた。和魂洋才が典型だと思うね。明治維新は政治で動いたからまだいいですよ。政治の世界を変えたから。戦後は何をしたかっていうと、日常生活を変えちゃったわけですよね。その典型が家族制度で、大家族から核家族になった」(p.20)。
 養老「今言われた「科学的根拠」というものが入ってきたら絶対に信用しない(笑)」(p.22)。
 どうやったら科学的真実を見極められるか。養老「それは分野にもよると思いますね。どういう問題をあつかっているか、その切り分けが今できていないわけです。何もかも一緒にして科学的にやろうとするからできないのです」(p.23)。
 養老「人間の社会って。そんなややこしいものを理屈で簡単に割り切れるもんじゃない。終戦後、それを割り切れると思ったのがアメリカであり、日本だったわけです。だから僕みたいにストレスをずっと感じている人間もいるわけです」(p.27)。
 名越「でもあえて言葉にこだわるならば、同調圧力や差別、という言葉はあたかも意識してそれが生産されているという誤認を生む言葉のように思えるんです。同調圧力や差別が生まれるから、それを戒めなければならない、一網打尽にしなければならない、とまた強迫的に意識化しようとする。/社会正義の視点ではそれで済むのでしょうが、おそらくそれは解決の糸口ではない気がしています。もっと多様なもの、根本的なことを美しいと思ったり、受け入れたりすること。そういう動き続ける作法のようなものを取り戻さなければ、良かれと思ってされている提言や批判が、いっそうきついストレスとなって結実し続けるような気がしていて、恐れています」(p.30)。
 ウクライナ侵攻について。養老「この先、仮にプーチンが退いたとしても、あの社会では、また別なプーチンが現れますよ」(p.58)。
 日本人の自我の確立について。養老「もともとないんです。無我ですよ」(p.71)。
 養老「個の確率とか言いたがるんですよ。教育システムの中でね。あれ混乱させますよね、自己実現とか。自己がハッキリしてないのに」(p.72)。
 宗教がない日本の道徳の実態について。養老「「みんな」。子どものころから、みんながどうするのか、それぞれ自分の意見があるのは当然として、みんなはどう思うでしょうか、というものです。日本の社会の根底にあるのは「みんな」なのです」(p.74)。
 養老「結局、おカネが儲かりだしたら問題なんですよ。持ち出しでやっている間は、そんなにひどいことにはならないはずです」(p.108)。
 健康に生きる、健全に生きるといった画一的な価値観の押し付けについて。養老「そんな価値観は相手にしなければいい。要は、気持ちよく生きるということに尽きますね。ネコ見ていると分かりますよ。あいつら健全に生きようなんて思ってない。毎日、一番気持ちのいいところで過ごしている」(p.124)。
 養老「現代人にとっていちばん大きな健康問題は、自分がどういう状態だったら気持ちがいいか分からないことですよ」(p.124)。
 名越「でも、僕は社会全体を変える必要はなく、自分が変わることが大事だと思いますね」(p.147)。
 養老「社会はひとりでに変わりますよ。無理やり変えようとしてもだいたいうまくいかない。ガタが次々と出てきます」(p.147)。
 名越「人間って、原因がこれだって言いたいんですね。とくに日本はその傾向が強い。ある種のエリート主義かな。(略)この原因で、と言ったら、例えばじゃあ排気ガス出すなという、短絡過ぎてしょうもないことになって。コロナ禍で本当に参りましたね。この原因でとか」(p.157)。
 養老「子どもなんてみんな注意欠陥多動性症候群ですよ」(p.159)。

エイミー・ベンダー著『わがままなやつら』2023年08月05日 22:06

 短編集。全体にどことなくユーモラスで、全体にどことなく孤独で悲しい。
 「デビーランド」で、一人になってもなお「私たち」という一人称を使う語り手は、自己同一性の混乱を表しているのだろうが、実験的な感じがして面白い。
 「果物と単語」では、主人公は果物と単語を売っている店を訪れる。NUT(ナッツ)という単語は細かく砕いたナッツでできており、PEARL(真珠)という単語は全体が一つの真珠でできている。固体でできた単語ばかりではない、ハイプに入った液体の単語もあり、その中にはPOISON(毒)やBLOOD(血)もあった。最後に主人公は気体の単語を見せてもらうが、目に見えないHOPE(希望)を壊してしまい店主の怒りを買う。
 「アイロン頭」では、カボチャ頭の夫婦がアイロン頭の息子を生む。まったくわけが判らない。これが一番好きかもしれない。
 「ジョブの仕事」では、主人公が興味を持ったものを神さまが次々に禁止する。理由は判らない。神さまは、逆らえば殺すと言う。最後には何もかも禁止され、主人公は何もできなくなる。「神さまは男を、扉も窓もない箱に入れた。彼の両手を背中で縛り、両目には目隠しをした。口にはビニールテープを貼った」(p.144)。
 「飢饉」では、ある朝、主人公の許にじゃがいもが届けられている。間違いだと思った彼女はじゃがいもを捨てるが翌朝には戻ってきている。彼女は、じゃがいもを燃やしたり、道路に置いて車に轢かせたり、郵便でアイルランドに送ったりするが、いつも翌朝には彼女の家に戻っている。じゃがいもは成長して人間に似た姿になっていく。最後まで読んでも「飢饉」という題名との関係は判らない。俺が判らないだけかもしれないが。

山内志朗著『中世哲学入門----存在の海をめぐる思想史』2023年08月22日 23:08

 新書版だからもっと一般向けの解説書かと思ったらかなり専門的。いやあ時間かかった。暑いとこんな難解な本は読めないな。
 普遍論争は捏造された、というような話がある。スコトゥスの存在論とオッカムの唯名論はそれほど対立的なものではなく、寧ろ連続的なものであった。対立とか論争とかいう話は、実はスコトゥスとオッカムが所属していたフランシスコ会を攻撃するために他会派が誇張して喧伝したというようなことが書かれてある。
 しかし、この本の主眼はそういう歴史的あるいは政治的な論争史ではなく、中世の神学者たち、スコトゥスやオッカムがどのように世界を見、何を明らかにしようとしていたかということを、単なる理論ではなく、ありありとした実感として再現しようとすることである。もちろんそんなことはできはしない。できないと知りながら試み続ける、という過程の中間報告のごとき本である。
 面白かったのは、普遍が限定されることで個体が生じるという存在観である。現代の物理学で言うと、世界には「存在場」のようなものが偏在していて、そこから個物の存在が生成するのである。「花が存在する」のではなく「存在が花する」というイメージ。
 この本の中心主題である「存在の一義性」についてまだ何も書いてないが、もう脳が疲れた。