永井均著『道徳は復習である ニーチェのルサンチマンの哲学』2023年12月02日 22:54

 ニーチェ及び道徳哲学に関するエッセイ。
 ルサンチマンについて「同じ土俵で、つまり同じルールで闘えないとき、密かに土俵そのものを作り変えて勝利をかすめ取る、という点がそのポイントです」(p.22)。
 「つまり、キリスト教的ルサンチマンは、反感や憎悪をそのまま愛と同情にひっくり返すことによって復讐を行う独特の装置なのです。この装置を使うと、憎むべき敵はそのまま「可哀そうな」人に転化します。だから、彼らの「愛」の本質は、実は「軽蔑」なのです」(p.26)。
 「存在の無根拠性を直視できずに、いろいろな物語を立ててゴマかすこと----これがニヒリズムの本質です。この心性の特徴は、別の観点から見ると、偶然ということに耐えられずに、どんなことでもそうなるべくしてなった必然的な意味があると見なすことにあります。出来事の背後に必然性を、つまり当然そうなってしかるべき理由を探さずには気が住まないというのが、あらゆるニヒリズムの、つまり空無信仰の源泉です」(p.38)。
 こういう通俗的にニヒリズムに対して、無根拠性を直視するのがニーチェの(もう一段上の)ニヒリズムである、ということらしい。
 「話を戻せば、人生の意味ということをリアルに、つまりマテリアル(唯物論的)に理解するためには、自分の存在を含めてどんな運命にも何の意味もないということを直視しなければならない。(略)根拠というならば、現にこうあることそれ自体が根拠、根底そのものなのであって、本来こうあるべきとか、こうあったはずといったことは、そこから出発して空想された夢に過ぎない」(p.40)。
 「「神が死ぬ」ということは、時間論的にいえばキリストの再臨や理想社会の実現のような歴史の目標がなくなることですから、ニヒリズム内の観点からいえば、すべてが同じで、どうでもよくなることです。しかし、別の観点から見れば、すべての「時」を目的への従属から解放すること、つまり「時」のニヒリズムから解放することです。このとき、「すべてが同じ」ということの意味をどう解釈するかが決定的な分かれ目になると思いますね」(p.46)。
 「神が存在する人は、神の存在を信じる人ではない」(p.66)。そういえば、ユングは「神の存在を信じますか」と聞かれて「信じているのではない。知っているのだ」と答えたという。
 「もし「私」に「ただひたすら肯定する」なんてことが可能だとすれば、それは「私」が肯定とか否定とかそういったことの埒外に出るしかないですね。そんなことができるでしょうか。(略)ニーチェの世界解釈の枠組みの中では、結局、それは不可能だったんだと僕は思います」(p.135)。

永井均著『転校生とブラック・ジャック』2023年12月07日 23:30

 先生と十二人の生徒によるセミナー、という形式で語られる解説書。例によって「「私」が<私>なのはなぜか」という永井均的問題が語られるのだが、この本では特に「私の持続」が問題にされる。世界は<私>を中心に開かれると考えれば、この問題はそのまま「世界の持続」の問題でもある。そして、この問題も例によって個別化と一般化の間を行き来する。つまり「個別的な問題を言葉にしてしまうと必然的に一般化されてしまい、個別性は逃げていく」という図式。
 題名は、本文中の「映画の『転校生』のように「心」が入れ替わってしまった二人の人物に対して、漫画『ブラック・ジャック』のような外科医が元通りに心を入れ替える、という状況で、私は維持されるとはどういうことか」を考えるセミナーをもとにしている。その他、パーフィットの「一旦情報化されてから再構築された私は私といえるか」という問題も議論される。
 今回セミナーという形式をとった理由がちょっと面白い。「ぼくには、確かに哲学的な問いはあると思うけど、どうも哲学的な主張というものがないんだ。ところが、ぼくが何か問いを出して、それについて考えられる議論を展開すると、たいていの人は何かを主張していると思い込んでしまうみたいなんだよ。(略)だから、この本では、ぼくの問いたい問題といまのところ考えられる議論とを、きみたち複数の人物の対立する主張に分散させて、ぼくが何か特定の主張をしているのではないことを際立たせたく思ったんだよ」(p.194)。
 永井にとって哲学的議論は哲学者同士が互いに刺激し合って思索を深め合うためのものであって、何かを主張するようなものではなく、ましてや相手を論駁するためのものではないらしい。ひろゆきに聞かせてやりたいような話である。
 「私が存在するとは、いま存在することである。私が数十年間、永井均として存在しつづけてきたという事実は、いまなぜか私が永井均であるという事実に基づいて、いま作り出されている。私の存在は単なる奇跡であるから、それはいつでも消滅しうる。だが、消滅しても、それは誰にも知られない。だから、ある意味で、それは決して消滅しない。またある意味で、消滅したときすべてが終わる」(p.6)。
 生徒の一人Eのレポートから「問題が理解できないとだけ言えばいいのに、問題は存在しないと言い張る人がいると、殴りつけたくなる。人間が一般にどういうときにこのような問題を感じるかを論じることで、この種の存在論的問題に決着がつけられると思っているような人を見ると、殺したいほど腹が立つ」(p.86)。
 「自己も現在も、ただそれがたまたま自己であり現在であるという事実以外に、何の意味もない。それゆえ、過去は現在を意味づけるためにあるのではない。(略)他者はただ無関係に存在するものとされることによってのみ救われるように、過去はただ忘却され、現在と決定的に隔てられることによってのみ救済されるのである。だから、考古学的視線とは、視線を向けることができないものに対する、不可能な視線の別名なのである」(p.228)。
 「こうした問題は、依然として少しも解決されずに問題でありつづけている。このような問題が解けたところで、世の中に劇的な変化が起こるわけでも、人類が今より幸福になるわけでも、なんでもない。そんこととは無関係に、問題はただの問題として、単純に、むきだしに、存在しつづけている」(p.233)。

養老孟司著『老い方、死に方』2023年12月08日 23:18

 老いと死について語る対談集。恐山の僧侶南直哉と宗教や思想の問題を、生物学者の小林武彦と遺伝子などの生物学的な基礎を、地域経済学者の藻谷浩介と高齢化と里山経済の問題を、阿川佐和子と介護の問題を、それぞれ語る。
 南「それで、「牧師さん、僕、洗礼を受けようと思うんです」と言ったら、きっと喜ぶだろうと思ったのに、牧師さんはしばらく考えている。それで、「南くんね、キリスト教っていうのはね、人を信じるんじゃなくて、神様を信じるんだよ」って言われたんです。そして、「君はいま、やめておいたほうがいい」と。/偉い人だなと思いました。僕が宗教家として尊敬しているのは、あの人だけかもしれない」(p.20)。
 南「僕に言わせると、「思いどおりにならない」というのが「諸行無常」の核心だと思うんです」(p.20)。
 南「僕はね、夢や希望っていうのは、いまを犠牲にして先の利益を得るという意味では、投資の話の転用じゃないかとも思うのです。そして投資というものは、やはり失敗がある」(p.26)。
 養老「いや、僕はもっと乱暴なことを言ってます。人生をコスパで考えるなら、生まれたらすぐ死んだらいいと」(p.42)。
 養老「私はかねてより、老化とは発生の延長だと思っていました。発生の時に働いていたメカニズムが、歳を取ってもそのまま働いている、おそらくそれが老化の原因だろうと」(p.82)。
 藻谷「資本主義とは何か。人間の歴史の始まりに遡ってその本質を考えれば、「資本を循環再生させて、利子を得る主義」ではないでしょうか」(p.120)。つまり、循環させずに廃棄物を出すのは資本主義でない。
 藻谷「お金以外の資本も大事にする里山資本主義では、お金を払って手に入れるいわゆる「等価交換」だけでなく、お金を介さない「物々交換」や、余ったものを見返りを期待せずに人にあげてしまう「恩送り」も重視します。大人は、昔育ててもらった恩を、子どもに返すわけですね。自分に直接に見返りはなくても、社会全体としては、それは投資なのです」(p.125)。
 カネは利子を生むかという問題。藻谷「30年前まではそうでした。ですがゼロ金利の社会になったことで、日本ではカネは資本ではなくなってしまいました」(p.131)。
 対談は結論が出なくても時間が来ると終わるから投げやりな感じがして良い。

梨木香歩著『歌わないキビタキ 山庭の自然誌』2023年12月10日 22:59

 エッセイ集。副題に「山庭の自然誌」とあるように、主題は身近な自然についてである。全体的な印象として、自然を人間あるいは著者に引き寄せすぎているように感じる。倫理や美や感傷は人間の側にあるのであって、自然の側にはない。そういったものは人間が自然に投影しているのであって、自然の方からやってくるように感じるのは錯覚である。
 こういう言い方をすると批判しているようだがそうではない。こういう態度は、科学者として、あるいは実践的な自然保護活動家としては間違っているだろうが、著者はそのどちらでもないからである。人は、特に日本人は自然に自分の気持ちを、意識的無意識的に投影する。それが日本の文学者の伝統的立場であろう。
 著者はそのことに自覚的である。頭のどこかで自分の感情は非合理だと知りながら、可愛いんだからしようがないじゃん、と思っている。妥協でも諦めでも開き直りでもなく、人間の自然な感情を受け入れている。
 そういう自然とのかかわりの中に、自らの闘病や母親の介護、阿部元首相の銃撃事件、ウクライナの戦争などが影を落としていく。もちろん、パンデミックも。
 「「ずっと劣勢に立っていた」。一生を総括する言葉として胸を張って墓碑銘にしてもいいくらいだ。しないけれど」(p.52)。

松尾太郎著『宇宙から考えてみる「生命とは何か?」入門』2023年12月12日 22:53

 宇宙生命探査に関する解説書。主題となるのは、宇宙生命探査の意義と技術的な現状だが、準備的な知識として、古代からの人類の宇宙観と生命観の変遷が概観されているのが素晴らしい。
 天文学においては天動説から地動説へ、近代以後の太陽系内から系外への観測範囲の拡張などが語られ、24年に及ぶケプラー宇宙望遠鏡の開発史がやや詳しく語られる。
 生物学においては、顕微鏡の発明以後の急速な展開、ダーウィンとメンデル、細胞の発見、DNAの発見、共通性と多様性という相反する性質を持つ生命の本質論などが語られる。
 本論である地球外生命探査では、太陽系内探査、知的生命体との通信が語られた後、系外惑星探査について詳しく語られる。
 「全体像がわかる」という意味では、入門書として完璧と言ってよいのではなかろうか。河出書房新社の「14歳の世渡り述」という叢書の一冊だが、14歳向けとしてはやや説明不足かなと思われるところもなくはない。