永井均著『転校生とブラック・ジャック』2023年12月07日 23:30

 先生と十二人の生徒によるセミナー、という形式で語られる解説書。例によって「「私」が<私>なのはなぜか」という永井均的問題が語られるのだが、この本では特に「私の持続」が問題にされる。世界は<私>を中心に開かれると考えれば、この問題はそのまま「世界の持続」の問題でもある。そして、この問題も例によって個別化と一般化の間を行き来する。つまり「個別的な問題を言葉にしてしまうと必然的に一般化されてしまい、個別性は逃げていく」という図式。
 題名は、本文中の「映画の『転校生』のように「心」が入れ替わってしまった二人の人物に対して、漫画『ブラック・ジャック』のような外科医が元通りに心を入れ替える、という状況で、私は維持されるとはどういうことか」を考えるセミナーをもとにしている。その他、パーフィットの「一旦情報化されてから再構築された私は私といえるか」という問題も議論される。
 今回セミナーという形式をとった理由がちょっと面白い。「ぼくには、確かに哲学的な問いはあると思うけど、どうも哲学的な主張というものがないんだ。ところが、ぼくが何か問いを出して、それについて考えられる議論を展開すると、たいていの人は何かを主張していると思い込んでしまうみたいなんだよ。(略)だから、この本では、ぼくの問いたい問題といまのところ考えられる議論とを、きみたち複数の人物の対立する主張に分散させて、ぼくが何か特定の主張をしているのではないことを際立たせたく思ったんだよ」(p.194)。
 永井にとって哲学的議論は哲学者同士が互いに刺激し合って思索を深め合うためのものであって、何かを主張するようなものではなく、ましてや相手を論駁するためのものではないらしい。ひろゆきに聞かせてやりたいような話である。
 「私が存在するとは、いま存在することである。私が数十年間、永井均として存在しつづけてきたという事実は、いまなぜか私が永井均であるという事実に基づいて、いま作り出されている。私の存在は単なる奇跡であるから、それはいつでも消滅しうる。だが、消滅しても、それは誰にも知られない。だから、ある意味で、それは決して消滅しない。またある意味で、消滅したときすべてが終わる」(p.6)。
 生徒の一人Eのレポートから「問題が理解できないとだけ言えばいいのに、問題は存在しないと言い張る人がいると、殴りつけたくなる。人間が一般にどういうときにこのような問題を感じるかを論じることで、この種の存在論的問題に決着がつけられると思っているような人を見ると、殺したいほど腹が立つ」(p.86)。
 「自己も現在も、ただそれがたまたま自己であり現在であるという事実以外に、何の意味もない。それゆえ、過去は現在を意味づけるためにあるのではない。(略)他者はただ無関係に存在するものとされることによってのみ救われるように、過去はただ忘却され、現在と決定的に隔てられることによってのみ救済されるのである。だから、考古学的視線とは、視線を向けることができないものに対する、不可能な視線の別名なのである」(p.228)。
 「こうした問題は、依然として少しも解決されずに問題でありつづけている。このような問題が解けたところで、世の中に劇的な変化が起こるわけでも、人類が今より幸福になるわけでも、なんでもない。そんこととは無関係に、問題はただの問題として、単純に、むきだしに、存在しつづけている」(p.233)。

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