ジョナサン・ストラーン編『AIロボットSF傑作選 創られた心』2023年06月01日 22:18

 アメリカで編集されたロボットテーマSFアンソロジーの全訳。『創られた心』という題名は何やら深遠で哲学的な響きだが、ここから予測されるような至便性の高い作品は少なく、全体に軽い印象。いつも言うように軽いことはエンターテインメントにとって欠点ではないが、ちょっと書名と落差がある感じ。まあ、近頃は自己同一性とか意識のハードブレムとかクオリアとかいう主題は流行らないのであろう。一時期頻出したアイデンティティという言葉はさっぱり聞かなくなった。俺の苦手な自分探しの物語が少なくなったのは助かるが。
 変わって主題となっているのは、ロボットの差別とか搾取とかいった人間による抑圧の問題。つまりロボットの人権問題で、これはどうしても現実の人間に対する人種差別や格差の問題を連想してしまうが、隠喩として読んでしまうとつまらない。やはり、ロボットや人工知能に独自の問題を描いていただきたい。
 が面白かったのは、ジョン・チュー「死と踊る」とスザンヌ・パーマー「赤字の明暗法」で、型落ちした古いロボットの処分、という問題をあつかっている点である。役目を終えた知性ある存在をどのように扱うか。古くは筒井康隆が「お紺昇天」で、近年ではカズオ・イシグロが『クララとお日さま』で扱った主題で、ちっとも新しくないが、古びることもない。

池内了著『科学の限界』2023年06月06日 01:02

 科学は万能ではなく、さまざまな限界がある。その科学とどう付き合っていくか、を論じる。
 第1章では、一九世紀末と二〇世紀末に起こった科学終焉論について語る。科学が終焉したかどうかはともかく、確かに、前世紀末から今世紀にかけて科学は停滞期に入ったように見える。そこで、以降の章で衰退の原因を考える。それが書名の「科学の限界」の意味である。
 第2章では、人間の能力や性質に基づく科学の限界について。技術の進歩が加速し人間の英知が追いつかない状況、科学者による研究の捏造、無意識の心理的バイアス、過剰な懐疑精神による反集団主義などが語られる。
 第3章では、社会に限界づけられる科学について。国家に組み込まれ制度化され、軍事化され、商業化されて、研究の自由を失っていく科学が語られる。「日本では情報収集衛星(スパイ衛星)にまず予算がつき、「はやぶさ二号機」にはその一〇分の一しか予算が措置されない事態が生じている」(p.079)。
 第4章では、科学の営みそのものに内在する限界について。量子力学における不確定性、ブラックホール境界、論理学における不完全性原理いわゆるゲーデル問題などが語られる。また、歴史や進化、宇宙論などの一回きりの事象、非線形関係、複雑系についても述べられる。更に、科学の方法としてのシミュレーション、確立・統計現象の危険性も警告する。
 科学が限界を内包しているということは、無批判にすべてを科学に頼るのは危険ということである。その時、科学や技術を活用するにあたって、科学だけでは解決できない問題に対して、どのように対処するのか。科学に代わる論理はあるかという問いが立てられる。
 第5章では、すでに具体的に現実社会で生起している問題、あるいは今後生起するであろう問題を取り上げる。地下資源の枯渇の問題、地球環境問題、エネルギー問題、核(原子力)エネルギー問題、バイオテクノロジー問題、デジタル化問題、物理領域の実験施設のマンモス化問題などである。二〇一二年発行の本なので、ここでは取り上げられていないが、その後急速に深刻化した問題として、AI問題があろう。
 第6章では、ここまでに見てきた科学の限界を踏まえて、著者が考えるあるべき科学の構想が提示される。それは、社会に直接的に役に立つ科学ではなく、芸術や思想と並置されるような文化としての科学である。「壁に飾られたピカソの絵のように、なければないで済ませられるが、そこにあれば楽しい、なければ何か心の空白を感じてしまう、そんな「無用の用」としての科学である」(p.183)。世知辛い現代にそのような科学が受け入れられる道として、「はやぶさ」の人気、日食や月食や流星群に注がれる目などの例を挙げる。「そこに共通する要素は、「物語」があるという点だ」(p.185)。
 そして、あまりにも巨大になりすぎたビッグサイエンスに対しては「等身大の科学」を提唱する。その具体例として、著者が顧問をしている十日町市の科学館「森の学校」で、市民にカメラを配って、いつどの花が咲いたか、最初に鳥が飛ぶのを目撃したのはいつか、を写真に記録して報告してもらう活動を紹介する。そして、このような活動は、対象を記載し、分類するという博物学の復権につながるのではないかと述べる。それは、何でも数値化して分析しようとする現代科学の風潮への批判にもなるであろう。

矢野茂樹(文)・植田真(絵)『はじめて考えるときのように』2023年06月06日 01:05

 考えることについて考えるエッセイ。著者は哲学研究者だが、子供に語り掛けるような優しい口調で語られている。
 第一章では「考えるとはどういうことか」について。「考えろ」と言われたら、いったい何をすればよいのか。著者によれば、考えるというのは、何か作業することではなく、何かを気に掛けているとか、どういうつもりかとかいう「意図」のことである。
 「問題をかかえこんでいる人にとっては、なんでもかんでもその問題に結びついてくる」(p.30)。
 そうして新しい結び付きに気付くこと、あるいは結び付きを作り出すことが考えるということらしい。
 第二章の主題は「問い」。現実に疑問を持つときには、学校の問題と違って問い自体が曖昧である。「ぼくたちはまず問いを問わなければいけない」(p.41)。人はしばしば「○○とは何か」という問いを立てるが、何を答えればその問いに答えたことになるのかは、このままでは曖昧である。答えることによって問いがはっきりするという逆説。
 「問題の発生はそれを問題たらしめる秩序がそこにみてとられていることに結びついている。そして、その秩序を破るものとして問題は現われ、ひとは破られた秩序を取り戻そうとして問題に向かっていく」(p.57)。
 第三章は「論理」について。著者は「論理は考えないためにある」という。論理は前提にないことが結論に入りこむことを排除する。つまり前提と結論は同じことを繰り返すトートロジーである。そして、論理が真偽を下すのは形式についてだけで、意味や内容は問わない。言葉はしばしばあいまいだが、形式さえはっきりさせれば論理の真偽は自動的に判る。自動的だから考えているのではない。考えるのは、どんな材料をどんな形式に当てはめるかという部分にあって、論理的な推論にはない。
 第四章は「ことば」が主題。「ない」という状態が「ある」。言葉が「ない」をあらしめる。言葉がないところには否定は「ない」。「否定においてぼくたちは、そこにないものを見てとることができる」(p.97)。言葉を使えば、存在しない可能性を思い浮かべることができるようになる。言葉の組み合わせが可能性を示唆する。「いわば、自在に組み合わせできる世界のパーツをもち歩いているようなものだ」(p.114)。
 第五章は「常識」について。常識は人により状況により異なる。そこで、どのような人たちに対して、どのような状況の時、どの常識を適用するかという「常識」も必要になる。それはその都度判断するのでマニュアル化することができず、ロボットに教えることが難しい。常識という「枠」がなければものを考えることはできないが、常識には絶対性がない。いくつもの常識を換えていく軽やかさを持つこと。
 第六章の主題は「自分の頭で考える」。著者は「自分の頭で考える」ということに否定的である。「考えるということは、実は頭とか脳でやることじゃない。手で考えたり、紙の上で考えたり、冷蔵庫の中身を手に持って考えたりする」(p.152)。そして、当然のように、自分一人で考えるのでもない、という。
 最後に、上手に考えるためのヒントが列記される。①問題そのものを問う、②論理を有効に使う、③ことばを鍛える、④頭の外へ、⑤話し合う。
 著者は『クマのプーさん』が好きらしく、クリストファー・ロビンやプーやイーヨーがしばしば登場する。俺もプーが好きなので嬉しくなる。

オラフ・ステープルドン著『最後にして最初の人類』2023年06月11日 23:06

 長編。オラフ・ステープルドンの代表作の一つだが、不勉強なことに初読。二十億年に及ぶ人類の未来史を描くという壮大な試み。
 第一章から第五章までは、この本の中では<第一期人類>と呼ばれる我々現生の人類ホモ・サピエンスの未来史。数々の戦争が起こり、ヨーロッパが没落し、アメリカと中国の対立ののちにアメリカ化された世界国家が樹立されるが、これもやがて没落していく。
 第六章以降は第二期から第十八期までの、もはやホモ・サピエンスとは別種の人類たちの物語。全体としては、理想的な「完全知性」に向けて進化しようとするが、何度も退化して知性を失い野蛮状態に戻るし、完全知性とは別の方向へ逸れて行ったりする。その過程で、火星人の侵略を受けたり、巨大な脳だけの生き物になったり、翼を身につけて飛翔したり、さまざまな種族が生まれては滅びていく。また、月が軌道をそれて地球に近づいてきたり、太陽活動が変動したりして、惑星移住を余儀なくされ、地球から金星、近世から海王星へと移り住む。
 二十億年の歴史を描いているのだから、自然の進化でも十分に種の変化は起こるはずだが、進化の多くは人工的な種の改編で起きるのが特徴の一つ。ここで描かれる人類たちは、遺伝子操作や優生学で人工的に自らの種を改造することにほとんど抵抗を感じない。
 描かれる歴史が長すぎるので、詳細が描かれないのは仕方のないことではあるが、各人類たちの文化や心理が十分に共感できないのは物足りないところではある。特に最後の人類の至った境地や哲学。もはや脳や身体の生理が異なっているので、理解するのは不可能なのも当然ではあるのだが、何か比喩的な方法で、薄ぼんやりとでも理解できるように描けたら良かったなあと思うが、それは今後のSF作家の役割であろう。
 様々な作家に影響を与えた名作だが、オールディスの『地球の長い午後』やクラーク『幼年期の終わり』は大いに刺激を受けている感じ。

オラフ・ステープルドン著『スターメイカー』2023年06月18日 23:35

 SFの古典的長編。最初の出版は一九三七年、第二次世界大戦前夜である。平凡なイギリス人であった主人公は、突然肉体を離れた霊的存在となって宇宙を翔ける。ビッグバンから遠未来までの宇宙と知性の全歴史、さらに繰り返し創造されたたくさんの宇宙について。
 最初は地球以外に誕生した様々な知性のバリエーションが描写される。六本足の生物から進化したケンタウロス型の人類とか、ヒトデのような動物から進化した人間的棘皮生物、オウム貝状船人類などなど。これらの知性は、地球人類と違うところも多いが、文明を発達させると必ず紛争を起こして絶滅したり、絶滅の危機に瀕するという点はみな共通している。そして、絶滅を免れたごく一部の種だけが次の段階に進むが、そこでも多くの場合は争いが避けられない。知性が発達すれば争いは避けられないというのが著者の確信なのかもしれず、争いを潜り抜けなければ知性は次の段階に進むことができないのかもしれない。
 海で発達した魚状人類と甲殻人類の共棲体は、更なる高みに達して、テレパシーでネットワークされた集団知性へと進化する。前著『最後にして最初の人類』でもそうだったが、個体知性が集まって集団が一つの人格のようにふるまうようになるのが、著者にとって「ありうべき知性進化の道筋」らしい。そしてこのような集団知性は、さらに段階的に惑星知性、銀河知性、コスモス知性へと段階を登っていく。
 俺の先走りで、このような知性進化の果てに造物主である「スターメイカー」へと到達して循環が閉じるのかと思っていた。ところが、被造物は最後まで造物主とはならず、スターメイカーはあくまで独立した存在だった。この創造主はキリスト教の神のように最初から全知全能の存在ではなく、いくつもの世界を創造しては自分の被造物から影響受けて、より完全な存在へと近づいていく、いわば成長する神なのだった。
 クラークの『幼年期』や小松左京の『虚無回廊』、小川一水『天冥の標』など遠未来SFはことごとく影響を受けているであろう。