矢野茂樹(文)・植田真(絵)『はじめて考えるときのように』2023年06月06日 01:05

 考えることについて考えるエッセイ。著者は哲学研究者だが、子供に語り掛けるような優しい口調で語られている。
 第一章では「考えるとはどういうことか」について。「考えろ」と言われたら、いったい何をすればよいのか。著者によれば、考えるというのは、何か作業することではなく、何かを気に掛けているとか、どういうつもりかとかいう「意図」のことである。
 「問題をかかえこんでいる人にとっては、なんでもかんでもその問題に結びついてくる」(p.30)。
 そうして新しい結び付きに気付くこと、あるいは結び付きを作り出すことが考えるということらしい。
 第二章の主題は「問い」。現実に疑問を持つときには、学校の問題と違って問い自体が曖昧である。「ぼくたちはまず問いを問わなければいけない」(p.41)。人はしばしば「○○とは何か」という問いを立てるが、何を答えればその問いに答えたことになるのかは、このままでは曖昧である。答えることによって問いがはっきりするという逆説。
 「問題の発生はそれを問題たらしめる秩序がそこにみてとられていることに結びついている。そして、その秩序を破るものとして問題は現われ、ひとは破られた秩序を取り戻そうとして問題に向かっていく」(p.57)。
 第三章は「論理」について。著者は「論理は考えないためにある」という。論理は前提にないことが結論に入りこむことを排除する。つまり前提と結論は同じことを繰り返すトートロジーである。そして、論理が真偽を下すのは形式についてだけで、意味や内容は問わない。言葉はしばしばあいまいだが、形式さえはっきりさせれば論理の真偽は自動的に判る。自動的だから考えているのではない。考えるのは、どんな材料をどんな形式に当てはめるかという部分にあって、論理的な推論にはない。
 第四章は「ことば」が主題。「ない」という状態が「ある」。言葉が「ない」をあらしめる。言葉がないところには否定は「ない」。「否定においてぼくたちは、そこにないものを見てとることができる」(p.97)。言葉を使えば、存在しない可能性を思い浮かべることができるようになる。言葉の組み合わせが可能性を示唆する。「いわば、自在に組み合わせできる世界のパーツをもち歩いているようなものだ」(p.114)。
 第五章は「常識」について。常識は人により状況により異なる。そこで、どのような人たちに対して、どのような状況の時、どの常識を適用するかという「常識」も必要になる。それはその都度判断するのでマニュアル化することができず、ロボットに教えることが難しい。常識という「枠」がなければものを考えることはできないが、常識には絶対性がない。いくつもの常識を換えていく軽やかさを持つこと。
 第六章の主題は「自分の頭で考える」。著者は「自分の頭で考える」ということに否定的である。「考えるということは、実は頭とか脳でやることじゃない。手で考えたり、紙の上で考えたり、冷蔵庫の中身を手に持って考えたりする」(p.152)。そして、当然のように、自分一人で考えるのでもない、という。
 最後に、上手に考えるためのヒントが列記される。①問題そのものを問う、②論理を有効に使う、③ことばを鍛える、④頭の外へ、⑤話し合う。
 著者は『クマのプーさん』が好きらしく、クリストファー・ロビンやプーやイーヨーがしばしば登場する。俺もプーが好きなので嬉しくなる。

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