池内了著『科学の限界』2023年06月06日 01:02

 科学は万能ではなく、さまざまな限界がある。その科学とどう付き合っていくか、を論じる。
 第1章では、一九世紀末と二〇世紀末に起こった科学終焉論について語る。科学が終焉したかどうかはともかく、確かに、前世紀末から今世紀にかけて科学は停滞期に入ったように見える。そこで、以降の章で衰退の原因を考える。それが書名の「科学の限界」の意味である。
 第2章では、人間の能力や性質に基づく科学の限界について。技術の進歩が加速し人間の英知が追いつかない状況、科学者による研究の捏造、無意識の心理的バイアス、過剰な懐疑精神による反集団主義などが語られる。
 第3章では、社会に限界づけられる科学について。国家に組み込まれ制度化され、軍事化され、商業化されて、研究の自由を失っていく科学が語られる。「日本では情報収集衛星(スパイ衛星)にまず予算がつき、「はやぶさ二号機」にはその一〇分の一しか予算が措置されない事態が生じている」(p.079)。
 第4章では、科学の営みそのものに内在する限界について。量子力学における不確定性、ブラックホール境界、論理学における不完全性原理いわゆるゲーデル問題などが語られる。また、歴史や進化、宇宙論などの一回きりの事象、非線形関係、複雑系についても述べられる。更に、科学の方法としてのシミュレーション、確立・統計現象の危険性も警告する。
 科学が限界を内包しているということは、無批判にすべてを科学に頼るのは危険ということである。その時、科学や技術を活用するにあたって、科学だけでは解決できない問題に対して、どのように対処するのか。科学に代わる論理はあるかという問いが立てられる。
 第5章では、すでに具体的に現実社会で生起している問題、あるいは今後生起するであろう問題を取り上げる。地下資源の枯渇の問題、地球環境問題、エネルギー問題、核(原子力)エネルギー問題、バイオテクノロジー問題、デジタル化問題、物理領域の実験施設のマンモス化問題などである。二〇一二年発行の本なので、ここでは取り上げられていないが、その後急速に深刻化した問題として、AI問題があろう。
 第6章では、ここまでに見てきた科学の限界を踏まえて、著者が考えるあるべき科学の構想が提示される。それは、社会に直接的に役に立つ科学ではなく、芸術や思想と並置されるような文化としての科学である。「壁に飾られたピカソの絵のように、なければないで済ませられるが、そこにあれば楽しい、なければ何か心の空白を感じてしまう、そんな「無用の用」としての科学である」(p.183)。世知辛い現代にそのような科学が受け入れられる道として、「はやぶさ」の人気、日食や月食や流星群に注がれる目などの例を挙げる。「そこに共通する要素は、「物語」があるという点だ」(p.185)。
 そして、あまりにも巨大になりすぎたビッグサイエンスに対しては「等身大の科学」を提唱する。その具体例として、著者が顧問をしている十日町市の科学館「森の学校」で、市民にカメラを配って、いつどの花が咲いたか、最初に鳥が飛ぶのを目撃したのはいつか、を写真に記録して報告してもらう活動を紹介する。そして、このような活動は、対象を記載し、分類するという博物学の復権につながるのではないかと述べる。それは、何でも数値化して分析しようとする現代科学の風潮への批判にもなるであろう。

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