エリー・ウィリアムズ著『嘘つきのための辞書』2023年11月24日 22:17

 長編。題名がくらくらするくらい素晴らしい。物語は、ロンドンのある辞書出版社の現代と、十九世紀の様子が交互に語られる形式で進む。
 現代、スワンズビー社には、社長兼編集長とインターンのマロリーの二人しか社員がいない。唯一の出版物である『スワンズビー新百科辞書』に、大量の実在しない言葉が混入していることが判り、マロリーはその項目を全て探し出す仕事を社長兼編集長に命じられる。
 十九世紀、『スワンズビー新百科辞書』は、辞書編纂者だけでも五十人以上いる一大事業だった。編纂者の一人であるウィンスワースには、勝手に作った単語とその定義を創作するという趣味があった。辞書の項目の形式で存在しない言葉について書きつけるのだ。ある日、仕事のストレスと報われない恋と爆発事故に巻き込まれたことで精神に失調をきたしたウィンスワースは、自作の偽項目を編纂中の本物の辞書の項目に紛れ込ませる。これが、現代のマロリーが選り分けなければならなくなったフェイク項目である。
 という筋立ても面白いが、そこに大量に登場する、実在しそうな造語や、まるで造語のような奇妙な実在語の数々が大変に愉快である。
 ウィンスワースもマロリーもしばしば「……を表す的確な言葉があれば良いのに」と思う。たとえば、十九世紀にはまだ二日酔いという言葉がなかったので、ウィンスワースは「アルコールを過度に取りすぎた際のさまざまな症状を表す語があってしかるべきだ」(p.37)と思ったりするのである。
 日本なら、井上ひさしが書いていそうな話だな、と思う。

辻直四郎・渡辺照宏訳『ジャータカ物語 インドの古いおはなし』2023年11月25日 21:59

 岩波少年文庫。『ジャータカ』は、仏陀の前世の説話を集めたもの。パーリ語で書かれ、五四七の説話が収められている。この本ではそこから三十の説話が選ばれている。どこの国にもある、「利他的であれ」という教訓的な説話である。意外性は全くないが、「天下一の弓の名人」の曲芸的射的など面白い描写もある。
 「あわてウサギ」における、一匹の兎の勘違いが引き起こすパニックなど、現代のネット社会でよくある話だし、「オオカミの断食」における、オオカミのすぐに揺らぐ決意など身に詰まされる。何千年経っても人間はあまり変わらない。

マリー・ハムスン著『小さい牛追い』2023年11月27日 22:45

 岩波少年文庫。ノルウェーの小さなランゲリュード農場一家は、夏になると家の家畜に加えて近所の家畜を預かって山に登り、秋になるまで放牧をして暮らす。十歳の長男オートと八歳の次男エイナールは、一日交替で牛追いの仕事に就く。一家には他に、七歳の長女インゲリド、五歳の二女マルタが居り、両親を加えた六人家族。この他に村でのお隣の子供たちや、他の牧場の牛追いの少女などが登場し、彼らの日常が丁寧に描かれる。
 子供たちはみな、たとえば『小公子』や『小公女』のような特別な子供ではない。どこにでも居るような普通の子供だが、それぞれの個性がよく描き分けられているのが良い。筋立ても、特別な事件が起こるというわけではなく、ノルウェーの田舎の普通の農家の日常が丁寧にそして活き活きと描かれている。そして、子供たちの心理が共感を持って表情豊かに描写されている。妙な教訓や感傷がないところも良い。

マリー・ハムスン著『牛追いの冬』2023年11月28日 21:57

 『小さな牛追い』の続編。ランゲリュードの冬が描かれる。男の子たちは大体ろくなことをせず、療養のためにやって来たいとこのヘンリーは都会風を吹かせた鼻持ちならない奴なのだが、なぜだかみんな愛らしく憎めない。自分の子ども時代を思い起こせば身に覚えのあるようなことばかりだからでもあろう。
 最大の山場は末っ子のマルタが肺炎に罹り死にかけるところだが、快復に向かい出したマルタが大事にされることに慣れ、暴君と化すところなど自分自身であるいは身の回りで、誰もが経験したことがあろう。
 寒さや雪など、北欧の田舎の自然と暮らしが、これ見よがしではなく描写されているところも良い。

永井均著『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない』2023年11月30日 23:19

 中学生高校生向けに書かれた哲学の解説書。主人公の翔太と猫のインサイトが哲学的主題について語り合う形式。中高生向けだから、哲学的な予備知識は何も必要がない。それでいて内容は幼稚ではない。むしろ、永井均哲学の重要な要素はすべてここに説明されている。難しい言葉は使われていないが、難しい内容もある。内容が難しければ、言葉を平易にしても理解するのは難しいのである。よく解説書や参考書などで「難しい内容を易しく」などと謳っているが、気軽に言うな、と思う。特に中高生に難しいのは、多くの問題に結論がついていない、判らないまま放り出されていることであろう。彼らは学校では結論のあることしか学んでいないからである。
 章題が内容をよく表しているので、列挙しておく。第一章 今が夢じゃないって証拠はあるか、第二章 たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか?、第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか、第四章 自分がいまここに存在していることに意味はあるか、第五章 死と夢。
 インサイトが翔太に向かって、交互に繰り返し「君は本当に馬鹿だ」「君は本当に頭がいい」と言うのが妙におかしい。
 第一章の「世界の外部は原理的に想像することも考えることもできず、できるように思うのは錯覚。世界の内部にもう一つ下位の世界を想像して、それを拡張しているに過ぎない」という話が興味深かった。
 「そういうふうにね、自分がたまたま習い覚えた哲学技法をあらゆる問題にただ適用してね、それで問題が解決したって思いこんじゃうのが、いちばん駄目なんだよ。もっと自分自身がほんとうに感じた問題に即して、ひとつひとつていねいに考えていかなくちゃ。それによって、習い覚えた哲学技法そのものを検証していく必要があるんだよ」(p.71)。
 「カントはね、問いそのものを置き換えて、そもそも真理とは何か、っていうことを問題にしたんだ。つまりね、ほんとうの意味で存在するといえるものは何か、じゃなくて、ほんとうの意味で存在するといえるものが、そういえる根拠は何か、を問題にしたんだ」(p.138)。
 「カテゴリーは思考の枠組みだから、ぼくらはその外に出ることはできないんだ。(略)物自体の観点からすれば、ぼくらはいまぼくらが持っているカテゴリー以外のものを持つことも可能だっただろうさ。でも、それがどういうものなのかを、ぼくらがいま持っているこのカテゴリーの中で表現するのは不可能なことなんだよ。だからそれはないと言っても同じことなのさ。だから、この言語の限界がぼくらの世界の限界なんだ」(p.139)。
 「つまりね、死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態じゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。(略)つまりね、死ぬってことは、もともとあった何かが、ありえたはずの何かが失われる、ってことなんだよ」(p.244)。「ぼくはインサイトから聞いたハイデガーの話を、こんなふうに解釈したんだ。ぼくがやるべき宿題を、誰かが代わってやってくれるってことはありうるけど、誰もぼくの生そのものをぼくに代わって生きてくれることはできない。そして、死っていうのは、その生が失われることだから、誰もぼくの死を代わって死んでくれることができない。そして、そのことは、ほんとうは、このぼくについてだけ言えることなんだ」(p.260)。