永井均著『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない』2023年11月30日 23:19

 中学生高校生向けに書かれた哲学の解説書。主人公の翔太と猫のインサイトが哲学的主題について語り合う形式。中高生向けだから、哲学的な予備知識は何も必要がない。それでいて内容は幼稚ではない。むしろ、永井均哲学の重要な要素はすべてここに説明されている。難しい言葉は使われていないが、難しい内容もある。内容が難しければ、言葉を平易にしても理解するのは難しいのである。よく解説書や参考書などで「難しい内容を易しく」などと謳っているが、気軽に言うな、と思う。特に中高生に難しいのは、多くの問題に結論がついていない、判らないまま放り出されていることであろう。彼らは学校では結論のあることしか学んでいないからである。
 章題が内容をよく表しているので、列挙しておく。第一章 今が夢じゃないって証拠はあるか、第二章 たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか?、第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか、第四章 自分がいまここに存在していることに意味はあるか、第五章 死と夢。
 インサイトが翔太に向かって、交互に繰り返し「君は本当に馬鹿だ」「君は本当に頭がいい」と言うのが妙におかしい。
 第一章の「世界の外部は原理的に想像することも考えることもできず、できるように思うのは錯覚。世界の内部にもう一つ下位の世界を想像して、それを拡張しているに過ぎない」という話が興味深かった。
 「そういうふうにね、自分がたまたま習い覚えた哲学技法をあらゆる問題にただ適用してね、それで問題が解決したって思いこんじゃうのが、いちばん駄目なんだよ。もっと自分自身がほんとうに感じた問題に即して、ひとつひとつていねいに考えていかなくちゃ。それによって、習い覚えた哲学技法そのものを検証していく必要があるんだよ」(p.71)。
 「カントはね、問いそのものを置き換えて、そもそも真理とは何か、っていうことを問題にしたんだ。つまりね、ほんとうの意味で存在するといえるものは何か、じゃなくて、ほんとうの意味で存在するといえるものが、そういえる根拠は何か、を問題にしたんだ」(p.138)。
 「カテゴリーは思考の枠組みだから、ぼくらはその外に出ることはできないんだ。(略)物自体の観点からすれば、ぼくらはいまぼくらが持っているカテゴリー以外のものを持つことも可能だっただろうさ。でも、それがどういうものなのかを、ぼくらがいま持っているこのカテゴリーの中で表現するのは不可能なことなんだよ。だからそれはないと言っても同じことなのさ。だから、この言語の限界がぼくらの世界の限界なんだ」(p.139)。
 「つまりね、死ぬのが嫌なのは、死んでるって状態じゃなくて、もう生きられないってことが嫌なんだよ。(略)つまりね、死ぬってことは、もともとあった何かが、ありえたはずの何かが失われる、ってことなんだよ」(p.244)。「ぼくはインサイトから聞いたハイデガーの話を、こんなふうに解釈したんだ。ぼくがやるべき宿題を、誰かが代わってやってくれるってことはありうるけど、誰もぼくの生そのものをぼくに代わって生きてくれることはできない。そして、死っていうのは、その生が失われることだから、誰もぼくの死を代わって死んでくれることができない。そして、そのことは、ほんとうは、このぼくについてだけ言えることなんだ」(p.260)。

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