永井均他著『<私>の哲学 を哲学する』 ― 2023年11月21日 22:51
この本の成立過程については、上野修による「あとがき」が非常によくまとまっているので、ちょっと長いが引用しておく。
「二〇〇九年三月七日、大阪大学21世紀懐徳堂で公開シンポジウム「<私>とは何か--永井均に聞く」が開かれた。古荘真敬の司会で、パネリストは入不二基義、上野修、青山拓央、そして永井均。(略)会場はあっという間に聴衆で埋められ、長時間にわたって議論がなされた。本書はそのシンポジウムの記録を中心としている。/本書の構成は三つの部分からなる。まず、シンポジウムがめぐっていた問題の基本構造の、永井自身による提示。いわゆる永井均の独在的<私>の問題である。次にシンポジウム本体の記録。(略)そして最後に四人の後日考。これはシンポジウムを振り返りながら、各自があとで、めいめい勝手に書いたものである」(p.368)。
書名にもシンポジウムにも「<私>の哲学」とあるが、「いわゆる永井均の独在的<私>」の逆説を直接的に論じるのではなく、関連する問題として「現実あるいは<現実>」について多く議論がなされている。<私>自体はちょっと行き詰まっているので周辺から攻めている、のかな、という印象を持つ。永井均的な思考の流れでは、<私>と<今>と<現実あるいは世界>は並行的な構成を持つので、重要だし、問題の突破口となる可能性はある。今回はならなかったけど。
そもそも永井均の<私>は、本来非言語的というか前言語的というか、言語的でない問題を言語的に解決しようとしているので、最初から無理なのである。解決しないから考えても意味がないかというとそんなことはなく、結果ではなく過程に意味がある、というのが永井均の言う「哲学する」ということなのである。考えることが面白い。
討論の場面では、入不二基義が主張した「無内包」という概念が議論の中心の一つとなる。「内包」というのは、言葉の意味や概念のことだが、チャーマーズはこれを「第一次内包」と「第二次内包」に分ける。第一次内包とは、例えば水なら「味も匂いもしない透明な液体」というような日常的な言い方、第二次内包とは、「酸素と水素の化合物」というような科学探求的な言い方のこと。永井均はこれに「第〇次内包」を加える。第〇次内包とは、概念化以前の感覚的実感的な水。水のクオリアに近い内容である。入不二基義はこれをさらに延長したものとして、「マイナス内包」と「無内包」を加える。マイナス内包は潜在的な内包と説明される。そして、無内包は「いかなる内包も関与してこない」いわば、内容がなくて内包という形式だけがある、純粋内包とかメタ内包のようなものらしい。
無内包については肯定的否定的様々な意見が出されるが、この問題に限らず、俺には全体に「言語が強すぎる」印象。分析哲学以降の流れで「哲学的な問題は全て言語の問題として解決できる」という雰囲気が濃厚なのだが、もうちょっと「感覚」を重視しても良いのではないか。意識が言葉によって構造化されているとすれば、無意識(身体と言ってもいいけど)は感覚によって構造化されている。そして、言葉は「同じ」と言い、感覚は「違う」と言う。
「二〇〇九年三月七日、大阪大学21世紀懐徳堂で公開シンポジウム「<私>とは何か--永井均に聞く」が開かれた。古荘真敬の司会で、パネリストは入不二基義、上野修、青山拓央、そして永井均。(略)会場はあっという間に聴衆で埋められ、長時間にわたって議論がなされた。本書はそのシンポジウムの記録を中心としている。/本書の構成は三つの部分からなる。まず、シンポジウムがめぐっていた問題の基本構造の、永井自身による提示。いわゆる永井均の独在的<私>の問題である。次にシンポジウム本体の記録。(略)そして最後に四人の後日考。これはシンポジウムを振り返りながら、各自があとで、めいめい勝手に書いたものである」(p.368)。
書名にもシンポジウムにも「<私>の哲学」とあるが、「いわゆる永井均の独在的<私>」の逆説を直接的に論じるのではなく、関連する問題として「現実あるいは<現実>」について多く議論がなされている。<私>自体はちょっと行き詰まっているので周辺から攻めている、のかな、という印象を持つ。永井均的な思考の流れでは、<私>と<今>と<現実あるいは世界>は並行的な構成を持つので、重要だし、問題の突破口となる可能性はある。今回はならなかったけど。
そもそも永井均の<私>は、本来非言語的というか前言語的というか、言語的でない問題を言語的に解決しようとしているので、最初から無理なのである。解決しないから考えても意味がないかというとそんなことはなく、結果ではなく過程に意味がある、というのが永井均の言う「哲学する」ということなのである。考えることが面白い。
討論の場面では、入不二基義が主張した「無内包」という概念が議論の中心の一つとなる。「内包」というのは、言葉の意味や概念のことだが、チャーマーズはこれを「第一次内包」と「第二次内包」に分ける。第一次内包とは、例えば水なら「味も匂いもしない透明な液体」というような日常的な言い方、第二次内包とは、「酸素と水素の化合物」というような科学探求的な言い方のこと。永井均はこれに「第〇次内包」を加える。第〇次内包とは、概念化以前の感覚的実感的な水。水のクオリアに近い内容である。入不二基義はこれをさらに延長したものとして、「マイナス内包」と「無内包」を加える。マイナス内包は潜在的な内包と説明される。そして、無内包は「いかなる内包も関与してこない」いわば、内容がなくて内包という形式だけがある、純粋内包とかメタ内包のようなものらしい。
無内包については肯定的否定的様々な意見が出されるが、この問題に限らず、俺には全体に「言語が強すぎる」印象。分析哲学以降の流れで「哲学的な問題は全て言語の問題として解決できる」という雰囲気が濃厚なのだが、もうちょっと「感覚」を重視しても良いのではないか。意識が言葉によって構造化されているとすれば、無意識(身体と言ってもいいけど)は感覚によって構造化されている。そして、言葉は「同じ」と言い、感覚は「違う」と言う。
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