永井均著『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』2024年03月17日 22:44

 永井均の話はいつも同じところから始まる。いろんな言い方ができるが、それは「私は私の外に出られない」ということである。誰でも……は言い過ぎだな、多くの人は概念としてはそれを理解できるが、それを驚異としてありありと思い浮かべることができる人は、特に大人は少ないらしい。あいつの主観と俺の主観は交換することができないことを不思議に思いながら、それができたと想像して震え上がったり、人ごみの中で周囲の人たち一人一人にも自分と同じような内面があるのだと思ったときのあのむずむずする感じ。それが常に出発点である。
 なぜいつもそこへ戻っていくかといえば、それは決して解決しない問題だからである。もしかしたら、宗教や文学の方法では解決するかもしれない。しかし永井均はそれを解決とは認めないであろう。哲学の方法ではないからである。しかし哲学の方法ではそれは決して解決しない。その問題は非言語的あるは前言語的な問題を含んでいるが、哲学の方法は言語的方法だからである。結論の出ない問題を考えることを無駄と考える人は、結論は死と決まっているのだから、今すぐ死ぬべきであろう。
 「「<私>は、……世の中で永井均と呼ばれている人間である」と発見するこのルートは確実に存在している。しかし、その逆に、世の中で永井均と呼ばれている人物の心や体や自然的・社会的関係をどんなに細密に探究しても「永井均という人物は、……<私>である」と発見できるルートは存在しないのである」(p.85)。
 「<私>や<今>は間違いなく----デカルトが示したようにこれ以上間違いのないものはないほどに間違いなく----存在するのだが、それにもかかわらず、それはこちら側からだけのことであって、諸々の「私」や「今」が並列的に共在するあちら側から見ると、そもそも存在しない」(p.87)。
 「こういう場合、どちらか一方を消滅させることで問題を「解決」しようとする人が(どの問題領域においても)必ず出てくるが、問題は解決すればよいというものではない。少なくとも哲学的な問題の場合は、それが問題であることを既定の前提とはせずに、問題の問題性そのものを深く理解することのほうが遥かに重要である」(p.205)。
 「<私>は、外部からの視点を取り入れたその受肉において見れば、必ずその本質において特定のだれかなのである。それゆえ、唯物論的独我論者であれば、なぜか<私>であるその人体の物理的本質を探究したくなるのは当然の成り行きだろう。これに対して、<今>は何か特定のものに受肉してはいないので、その本質においては何(何時)でもなく、したがってその物理的本質を探究する方向も絶たれている」(p.240)。
 巻末の付論「自我、真我、無我について」は、仏教無我説の批評だが、これも非常に面白い。

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