飯田隆著『新哲学対話 ソクラテスならどう考える?』2023年09月09日 22:51

 対話形式のエッセイを四篇収録。いずれも、ソクラテスが現代の哲学的問題にどのように対応するか、を想像して書いたもの。ソクラテスが語るのだから、中世以降に生まれた哲学用語は使われない。基本的には日常会話で使われる言葉の範囲内で語られる。
 よく「難しい話をやさしく話す」などと言うが、難しい話をやさしく話すことはできない。そんなことができたなら、それはもともと難しい話ではなかったのである。高度な物理学の内容など想像してみればわかるはずである。ただし、見慣れない専門用語をより日常的な用語に置き換えることはできる場合もある。
 哲学用語などは、今日まで使用されてきた経緯などがあって、今となっては無駄に難解な用語も別な用語に置き換えにくい状況もあって、仕方がない面もある。しかし、意識無意識を含め、自分を偉く見せるためにやたらと難しい言葉を使いたがる傾向もあるに違いない、と俺は睨んでいる。
 ともかく、内容が難しいかやさしいかはともかく、この本では、用語だけは日常的な言葉に置き換えられている。そのため冗長になり、却ってわかりにくいのでは、と思われる部分もないではないが、用語の難解さは回避されている。
 「アガトン----あるいは嗜好と価値について」では、ワインの良し悪しを中心に、個人の嗜好と一般的な価値、一時的な相対的価値と普遍的な絶対的価値、などについて議論される。
 「ケベス----あるいはAIの臨界」では、「中国語の部屋」の問題を中心に、計算機は計算あるいは思考をしていると言ってよいか、という議論が展開される。俺の考えでは、中国語の部屋の中の人は中国語を理解していないが、中国語の部屋のシステム全体は中国語を理解している、と言ってよいのではないかと思っている。「理解」という言葉の使い方にもよるのだが。
 「意味と経験----テアイテトス異稿」は言葉の意味とは何か、という議論。林檎という言葉の意味は具体的な林檎を指し示すことができるが、「そして」とか「ある」とかの意味はどのように示すことができるか、みたいな話。俺の考えでは意味とは「関係」である。
 「偽テアイテトス----あるいは知識のパラドックス」では、自己言及のパラドックス、いわゆるゲーデル的問題について議論される。
 それぞれ、内容も面白いのだが、哲学的問題が日常の言葉に置き換えられること自体がなんだかおもしろい。言葉を置き換えることによって、問題がずれたりしていないのか、なんてことも気になる。ソクラテスにはぜひカントやヘーゲルやハイデガーやサルトルやドゥルーズ的な問題も議論してもらいたいものである。何なら、仏教や儒教や道教も。

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