養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著『日本の歪み』2023年12月24日 01:01

 鼎談集。扱われている主題を示すために、各省の章題を列挙しておく。第一章 日本の歪み、第二章 先の大戦、第三章 維新と敗戦、第四章 死者を悼む、第五章 憲法、第六章 天皇、第七章 税金、第八章 未来の戦争、第九章 曖昧な社会、第〇章 地震。
 「「歪み」という主題が成り立つためには、「歪んでいない」という状態があるはずだ。ところが現実には、「歪んでいない」状態が客観的に規定されているわけではないから、どれだけ世間がおかしいと思っても、自分が不適合なのかもしれないという思いは否定できない」(p.6 養老孟司「まえがき」)。
 「私自身にとって、この鼎談は自分が自分であることを許容する気持ちになれたという点が最大の収穫だった。世間か自分のどちらかが正しいという見方をやめて、世間も自分も含めて現状を受け入れることができるようになった。別に開き直りではない。素直にそう思ったのである」(p.5 養老孟司「はじめに」)。
 戦争を天災のように見る日本人について。養老「それは「考え」ではないですね。印象です。そこらへんがたぶん「日本」流の思考の根源にあるという気がします。人為と自然を強いて分けないというか。他人のせいにしても、仕方ないことがある。そういう態度は長い目で見て、自分の為にならない。どうせまた来ますしね」(p.42)。
 東「いま僕たちが直面しているのは、禍害と被害の関係をはっきりさせることが戦略的に有利になる世界です。たしかに現実は養老さんのおっしゃる通りで、どんな事件でも加害者と被害者が簡単に明確に分かれることはあり得ない。しかし、それでもあえて「被害は絶対だ」ということが、大きな政治から小さな政治まで、戦略的に非常に強くなっている時代です」(p.47)。
 茂木「自由意志というのは、まさに、脳が後付けで行う「ブックキーピング」のようなものであると考えられています。つまり、自由意志があってある選択や行動が生じるというよりは、脳が無意識を含めた一連のプロセスで選択したものを、後から追認し、理由付けし、物語化するのが自由意志だと考えられているのです」(p.49)。
 養老「このあいだのワクチンで「副作用」が「副反応」になったように、そういうインチキを官僚やメディアはよくやるんです。「副作用」というと薬のせいで「副反応」というと患者の生みたいになるでしょう」(p.58)。
 茂木「「敗戦」を「終戦」と言うのも同じですよね。「全滅」を「玉砕」と言ったり」(p.58)。
 夏目漱石『吾輩は猫である』について。養老「正月に猫が拾われて、台所で残った雑煮を食うんですが、歯にくっついてしまって踊りを踊っちゃう。それが漱石の自画像じゃないかなと思うわけです。飲み込めたら栄養になるのに、歯にくっついて飲み込めないでもがいている」(p.82)。飲み込めないのは西洋の文明である。
 東「いずれにせよヨーロッパの哲学は二人称で考えることが苦手だという印象がある。「近い他者」という問題について考えるのが苦手なんですよ」(p.96)。
 東「しかしそもそも「普遍的な追悼」なんて存在しない。靖国にしても慰霊祭にしても、問題の本質は二人称の追悼について考えていないことであり、そこに、リベラルの、そして大げさにいえば、ここ二〇〇年くらいの哲学の弱点が表れていると思います」(p.97)。
 東「普遍性を追求することがいかに危険かということですよね。普遍性を目指すことそのものに暴力性がある」(p.98)。
 東「このところ僕が考えているのは、「人間はあらゆるものをゲーム化するけれど、他方でルールは必ず変わるし破られるので、それを絶対化すると長期的には負ける」ということです」(p.112)。
 茂木「イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートが言った「グッドハートの法則」というのがあって、それは「パフォーマンスの指標自体が目的になったとき、それは良い指標ではなくなる」というものです。例えば幸福度調査をすること自体は良いが、幸福度を上げることを目標にすると必ずハッキングされるので、指標としても役に立たなくなるということです」(p.113)。
 東「人はルールを必ず破り、ハッキングするので、その成否を個別ケースでジャッジする人間が必ず必要になる。そしてその人間の判断はルール化できない」(p.114)。ルール化できないということは普遍化できないということである。
 東「以上を要約すれば、まずは二〇世紀前半に論理実証主義があり、言葉と現実の一致が夢見られたと、けれどもそのあとウィトゲンシュタインほかいろんな哲学者の批判があり、それらがさらにポストモダニズムにつながっていくのだけれども、それはそれで問題があって、いまはポストモダニズムの反動として新しい実証主義が台頭している。でもその基盤は、論理の厳密さよりも政治的正しさにあって、僕としてはあまり信用できない。むしろいまの実証主義はポストモダニズムと野合していて、政治的に正しい目的のためには言葉をいかようにも使うのが、新しい実証主義であるというのが僕の見解です」(p.120)。
 東「そういう点ではいまは変な時代で、一方ではみんな、記号と現実は本当は結びついていなくて、言葉はいくらでも解釈可能であることを知っている。しかし他方では、言葉は現実を反映しなければならず、なにが正しいかは「実証」で決まるとも主張されている。その両方がある時代なんです。二〇世紀思想史の流れの果てにこういう状況が生まれるのは、僕みたいな仕事の人間から見ればとてもよくわかりますが、歴史を知らずに現状を見たらすごく混乱して見えるはずです」(p.121)。
 茂木の「日本は整合性をつけることへの欲望が希薄なのではないでしょうか」(p.130)という意見に対して、養老「それでいいじゃないのと思っていたら、外の人にダメだと言われる。それがストレスになっている」(p.130)。
 東「『フラット化する世界』という本を書いたトーマス・フリードマンは、別の本で「マクドナルドが進出した国同士は戦争することはない」と書いています。ところが今回の戦争では、マクドナルドのほうがロシアから撤退してしまった。マクドナルドがある国同士が戦争しないのではなく、戦争が起きるとマクドナルドが撤退するだけだった。なるほどなと思うわけです。「フラットなグローバリズム」にかかわらず戦争は起きる。それがどれだけ損でも、やるときにはやる」(p.212)。

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