養老孟司著『ヒトの幸福とはなにか』2023年12月18日 00:16

 エッセイ集。
 「意識がきちんと答えられないことにこそ価値がある。七十年近く生きてくれば、いくらなんでも、そのくらいのことははわかる。きちんと答えの出ることなら、科学論文を書き、金を儲け、統計数字を扱えばいい。その世界だって、最後の答えは、じつは出はしないのである。理性に最後の答えがないことなど、理性がいちばんよく知っていよう。それは説明するものだからである。説明はつねに解答ではない」(p.27)。
 「現代人が学ばなければならないことのひとつは、「やむを得ない不快と折り合う」ことである。死もまた、そのひとつであろう」(p.110)。
 「文化の成熟には二つの面がある。一つは専門分野が深く進んでいくことである。それは「進歩」だとして、ほとんどの人が了解している。むしろ「そればかり」と思っていないだろうか。でももう一つ、重要なことがある。それは分野どうしの横のつながりである。これを理屈や説明ではなく、「肌で理解している」かどうか、それが文化の成熟度を分ける」(p.143)。
 「諸分野のつながり、その程度こそが、文化の成熟度を測るものではないか。東京は確かに専門家の集中するところである。でも東京大学と京都大学の違いを、私は長い間感じてきた。京都大学では専門性にこだわる必要がない。文化というものの「横のつながり」が理解されているからであろう」(p.143)。
 「教育はこうあるべきだという人は、たいていは教育に携わらない人である。文部科学省のお役人も典型であろう。そういう人の意見も岡目八目と思えば重要だが、それでものごとが決まるのは変である。それなら現場がしっかりしなければならない。そこに不安があるのが現代社会である。えらい人は管理職になってしまうからである。教育が本当に大切なら、えらい人が現場にいるはずだが、そういう人を出世させてしまうと、現場にえらい人がいなくなる。いま現代社会で起こっている問題の一つは、それであろう」(p.201)。
 「プーくま(くまのプーさん)を読むと、著者は大人だなあと思う。こう書くと、どこがですか、とかならず訊かれる。説明されればわかるはずだ。そう信じて疑わない。心になんとなく沁みこんでいく。そういうわかり方があろうとは、夢にも思っていない。あるいはそれを待つ辛抱がない。というより、沁みこむ以前に、あれこれ忙しいから、なにもかも忘れてしまうのであろう」(p.207)。
 「アングロ・サクソンは見ようによってはイヤなやつらだが、個人の行動についていうなら、私はいつも教えられる」(p.208)。
 「個性はもともとあって、身体的である。そこに信頼を置くなら、学校教育は画一的でいい。個性は生まれつきで、生まれつきなら、定義により「どうしようもない」からである。画一性が個性を殺すというのは、真の個性を信頼していない証拠ともいえる。(略)個性は「認めるしかないもの」であり、それ以上でも、それ以下でもない。個性はだれでも持っているもので、その意味で価値の上下はない。始めからある、どうしようもないもの、それには価値もクソもないではないか」(p.236)。
 「「アテネでもっとも賢い人はソクラテスだ」というデルフォイの神託が下って、ソクラテスはそんなはずはない、という。ただし、とかれはいう。自分がただ一つ、ほかの人と違うとすれば、「ほかの人はなにかを知っていると思っているが、私は自分がなにも知らないということだけを知っている」といった。これは謙遜でもなんでもない。じつは「学ぶ態度」を述べたのである。すでに「知っていると思っている人」は、もはや学ばないからである」(p.238)。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://castela.asablo.jp/blog/2023/12/18/9643556/tb