『現代思想2020年1月号』から2022年08月03日 21:34

2021年10月11日記す。
 大橋完太郎「ポストトゥルース試論 2020 ver.1.0「真実以後」を思考する(ための)哲学」。
 古代ギリシャの哲学者イソクラテスの言葉「彼ら(当時の人)は愚劣な者が演壇にあがるのをよしとしていたのであり、「私財を公共奉仕に充てる者ではなく国庫から給付金をばらまく者」を民主的な人間とみなしていた」(p.153)。
 身につまされる。

『現代思想2020年1月号』から2022年08月02日 21:53

2021年10月10日記す。
 セバスチャン・レードル「共同行為と複数自己意識」。
 内容はいたって真面目な哲学エッセイ。行為と複数行為の意識の同質性、というようなもの。しかし俺の興味を引いたのは内容ではない。
 「ヘレンはやかんに水を注いでいる。注ぎ終わって、今度はコンロに火をつけている。やかんに水を注ぐことによって、そしてコンロに火をつけることによって、ヘレンは紅茶を作っている。やかんに水を注ぐこととコンロに火をつけることは、紅茶を作るという一つの行為に部分として共に属している。紅茶を作る行為は、やかんに水を注ぐこととコンロに火をつけること----一方は今為されており、その後他方が為される----を含むことで、時間上に広がっている。さらに言うと、コンロに火をつけるとき、ヘレンは片方の手でガス栓をひねり、もう片方の手で点火している」(p.120)。
 切りがないのでこのくらいにするが、こういう日常的な行為の回りくどい描写というか説明が、延々と続く。繰り返しの多いくどい文章の奇妙さに、にやにやしながら読む。人間の行為を分析するのが目的で、ユーモアを意図したものではないことが、よりおかしさを生む。

『現代思想2020年1月号』から2022年08月01日 21:45

2021年10月 9日記す。
 脇坂真弥「人間の生の≪ありえなさ≫ シモーヌ・ヴェイユの「不幸」の概念を手掛かりにして」。
 「この問い(なぜ私なのか)を叫ぶ者は、自分の不幸の転落において自分が弱すぎたこと、すなわち「私が≪この私≫であること」がその状況に対して全く無力であったことを目の当たりにし、激しい自責の念に駆られている。だが、このとき同時に、その人はそれとは全く逆の事態にも直面していた。それは、自分が転落の閾値に立つよう選ばれたこと自体がそもそも偶然だったこと、すなわち「私が≪この私≫であること」は無力であるどころか、最初からカウントさえされていなかったという事実である。しかし、この事実を知ることは、当事者の自責の念をいやすことはない」(p.110)。
 「不幸が本質的に偶然なものである以上、そこへ転落する可能性を免れている人はいない」(p.111)。
 このエッセイとは直接関係ないが、次の仮説を思いつく。「積極的に悲しい目や怖い目に遭いたいと思う人はいないのに、悲劇映画やホラー映画を見に行く人が少なくないのはなぜか」という問いがある。それは「人間の生は本来的に悲しく恐ろしいものなので、他者の悲しみや恐怖に寄り添うことで、それがいくらか慰められるから」ではないか、という仮説というか妄想である。

『現代思想2020年1月号』から2022年07月31日 22:17

2021年10月 8日記す。
 中沢真一インタビュー「『レンマ学』とは何か 惑星時代のもう一つの知性」。
 「現代は人工知能(AI)の時代ともいえますから、ある意味では世界をロゴス的に理解することが生活思考の基本になっています。その傾向は今や全面的に世界を覆っています。そのため脳的ないしロゴス的とは異なる知性形態を探ることが、哲学の大きな問題となりはじめています」(p.9)。
 「ロゴス的知性とは異質な知性は実在していますが、それを比喩にもよらず否定神学的な言説にもよらず語ることができるのか、そもしもそのような知性について理論的な学は可能なのだろうか。『レンマ学』はそういう問題に取り組んだ本です」(p.9)。
 「(ロゴス的知性の線形性に対して)この知性にあってはあらゆる部分が相衣相関しながら活動しているので、言語のような線形秩序には把握できません。『直観』と呼ばれている知性の働きも、この非言語型の知性に属しています」(p.9)。
 「ヘーゲルのように全体を包括していく学問は確かに不可能です。(略)しかしレンマ学が目指している普遍学ではミニマリズムの最小原理主義が全体を生み出していくのです。最小原理によってこの世界の複雑な現象形態を追っていくという普遍学の形態です」(p.21)。
 適応という課題を解決しているという意味で、進化というのは一種の知性だよなあといつも思う。そして、進化しているのは個別の種や個体ではなく、生態系全体であり環境全体である。

犬という環境2021年11月16日 21:29

19年10月19日記す。
 人間を警戒する野生のキツネを選択していくと、数世代で人懐こい犬の様に品種改良できる、という有名なロシアの実験がある。狼から犬への変化はこのように起こったのだろうという仮説の立証実験である。オオカミが人間という環境に適応した、とも言える。なぜかあまり語られないことだが、当然犬という環境に人間も適応しているはずである。