永井均著『『青色本』を掘り崩す----ウィトゲンシュタインの誤診』2024年02月03日 23:17

 ウィトゲンシュタインの『青色本』の後半部分を解読し論評したもの。永井均による原文の翻訳と、その部分の解読論評が交互に、逐次的に述べられている。解説書であると同時に批判の書となっている。論評の中で、永井均はウィトゲンシュタインを「病人であり治療者」に喩えている。副題にある「誤診」とは「ウィトゲンシュタインが「病気」と考えていたことはむしろ根源的なことであって、ウィトゲンシュタインが「治療」と考えていた分析哲学こそが病んでいた」という、病気と治療の逆転の意味である。
 永井均が全ての根源と考えウィトゲンシュタインが病気と考えたものは「自他の非対称性とその非対称的なものを対象的に語る言語の問題」(p.3)である。ウィトゲンシュタインはこれを「私」言葉の使い方の問題として、彼の言葉で言えば「言語ゲーム」の問題として解決できると考えていたらしい。永井均はそれは非言語的あるいは前言語的問題であり、言語の問題としては解決することが不可能であるとしている。
 「ウィトゲンシュタイン的独我論を、実感として語ってみればこうなるだろう。他人に私的体験があるなんて、想像してみることもできない。だって、他人なのだから。もしそれがあったら、他人ではなく私自身になってしまうではないか!」(p.38)。
 「ウィトゲンシュタインの議論はこれから追っていくことにして、まず私自身の見解を簡単に述べておこう。言語の意味が問題であるかぎり、可能な答えは一つしかありえない。だれであれ、「私」や「私的体験」という語の意味を、自分自身という実例にのみ基づいて理解していることはありえない。なぜなら、もしそうだとしたらそれが何の実例であるのか分からないだろうから。その理解において、事態はすでに形式化されているほかはないのだ」(p.40)。
 「それは、世界に多数存在する身体のうち、なぜか一つが私の身体であるというきわめて特殊なあり方をしており、どれがそれであるかを、私は観察によらずに知っている、という事実である。この「受肉の秘義」とでも称されるべき事実こそがすべての出発点である」(p.71)。

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