永井均著『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』2024年01月12日 18:24

 いつもの永井的「意識(私)の特殊性と一般性の累進構造」の話だが、今回は「第一次内包、第二次内包、第〇次内包、無内包」の概念がある程度わかったのが収穫であった。
 水の例で言えば「無色透明の粘り気のない液体で、ふつうは冷たく、飲むことができる」というのが一般化して共有できる第一次内包で、「H2O」というのが概念化された第二次内包で、他者と共有できない自分だけの水体験が第〇次内包である。そして、それ以前の無内包というものがあることになる。
 第二次内包は第一次内包を通してしか到達できないが、いったん成立してしまうと、第二次内包の方が「前提」のようになってしまう。面白いことに、時系列的には第一次内包よりも前にあるはずの第〇次内包が、第一次内包を通じて振り返る形でしか内省的には到達できないという点である。
 「心なんて一般的なものは見たこともないのに、なぜそんなものが一般的に----私にもあなたにも彼にも彼女にも----あると信じられてしまっているのか。それがまずは、問題じゃないですか」(p.3)。
 「そして次に、物とか物質って、そもそも何ですか? 脳だって結局は誰かに知覚されて脳だとわかるわけでしょ? 脳とそれが作り出す意識との関係が論じられる以前に、知覚される脳と物体としての脳との関係がまずは論じられなければならないのではないでしょうか」(p.4)。
 「(脳と意識の関係は)他のどんなことにも似ていない! そうなのです。そして、何にも似ていない事柄については、説明ということが成り立ちません。こういう場合には一般にこういうことが起こるものであって、これもその一例なのだ、ということか言えないからです。どうも人間はそういう状況がずいぶんと嫌いらしく、無理にでも何かに似せようとする傾向があります」(p.7)。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://castela.asablo.jp/blog/2024/01/12/9650332/tb