養老孟司著『ものがわかるということ』2023年04月13日 23:19

 編集者の「ものがわかるとはどういうことでしょうか?」という問いに答えて書かれた一冊。養老思想の新たな鍵言葉として「共鳴」が登場する。助手時代に書いた論文にすでに表れている言葉だからちっとも新しくはないのだが、改めて強調されている。結論を大雑把に言えば「わかるとは共鳴である」ということになる。相手の身体が発している音が、自分の身体でも鳴り始める。言葉とは違う身体的あるいは感覚的なやり方で「何か」が伝わり共有されること。河合隼雄がよく使っていた「腑に落ちる」という言葉が近いであろうか。言葉でわかると同時に感覚的にわかることで、深い理解に達した感じ。何かがすとんと腹に墜ちる感じ。「言葉にならない」ことをこれ以上説明しても無理で、あとは体験するしかないのであろう。
 「人生の意味がわかった」と言われたら、怖い(p.4)。
 「好きなことをやりたかったら、やらなくちゃいけないことを好きになるしかない」(p.91)。
 「自分の責任で、自分の好みで、世の中が成り立っているわけじゃない。生まれてきたら、もうそこには世の中があった。言い方を換えれば、私たちは全員、世の中に遅刻してきています。世の中を生きていくということは、その中に巻き込まれていくことです。だったらうまく巻き込まれていくしかありません」(p.94)。
 「自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではありません」(p.97)。
 「相手のことがわからないのは、なにもあなたの理解力が足りないからじゃありません。たいていの場合、前提が違うからです。(略)前提の違う話をされると、人は当惑します」(p.103)。
 「子どもが夢中になっているゲームなどのデジタルな刺激とは違って、自然は向こうから働きかけてくることはありません。しかし、自然の中にじっと身を置いていると、徐々に自分が自然と同一化していくのがわかる」(p.200)。
 「少し理屈っぽいことを言えば、一本の木だって三十五億年という途方もない歳月を生き延びてそこに生えている。その形状がいい加減にできているはずがない。一本一本の細い枝の先端に至るまで、自然のルールを反映しているのです。そして、自然の中に身を置いていると、その自然のルールに、我々の身体の中にもある自然のルールが共鳴をする。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです」(p.201)。
 「自然がわかる。生物がわかる。その「わかる」の根本は、共鳴だと私は思います」(p.201)。

ティモシー・ウィリアムソン著『哲学がわかる 哲学の方法』2023年04月15日 23:00

 一般向けの哲学の解説書。岩波書店の「哲学がわかる」というシリーズの一冊なのだが、初心者向けというより、既に入門書を何冊か読んでいる人に向いている感じ。哲学の主題や理論ではなく、方法に絞って解説されているところが特徴。
 取り上げられている方法は、章題に基づくと「常識から出発する/議論する/言葉を明確にする/思考実験をする/理論を比較する/演繹する/哲学史を活用する/他分野を活用する/モデルを作る」の九つ。それぞれの短所と長所、言い換えるとどのような場合に有効でどのような場合に間違えるか、問題点と今後の展開に期待されること、などが詳しく述べられている。
 また、どのような立場の研究者がどのような方法を用いるか、どのように用いるか、自然科学などほかの学問分野では多用される方法が哲学ではあまり評価されず、活用されていない現状などにも言及がある。著者の立場というものはあるのだが、それはあまり強調されず、比較的中立的な視点からの記述となっている。
 そのせいか、今読んでいる文章がその方法を肯定的に扱っているのか、否定的に扱っているのかがわかりにくいところが多くあり、ちょっとイラッとする。
 物理主義と二元論と汎神論の比較解説が俺には有益だった。
 西洋哲学はみなそうだが、この本でも、曖昧さを廃し、概念を明確化し、境界をはっきりさせることを重視している。その不可能性にも言及はある(概念を言葉で定義すれば、その言葉の定義が必要となり無限に後退する)が、全体としては明確明晰であることを重要視している。
 東洋人である俺は、寧ろ曖昧なことを曖昧なまま扱う思考の技術、のようなことが必要なのではないか、と漠然と思っている。もうちょっと学問っぽく言えば、現代の学問は数値化した定量的な情報を扱うのは得意だが、定性的な情報を扱う方法が未熟である、と感じている。
 「昔から哲学者は、あらゆるものの本性をごく一般的なレベルで理解しようとしてきた。存在と非存在、可能性と必然性。常識の世界、自然科学の世界、数学の世界。部分と全体、時間と空間、原因と結果、心と物質。彼らはまた、理解することそれ自体を理解しようとする。知識と無知、信念と懐疑、見かけと実在、真と偽、思想と言語、理性と感情。さらに、そうした理解にもとづいておこなわれることを理解し評価しようとする。行為と意図、手段と目的、善と悪、是と否、事実と価値、快と苦、美と醜、生と死などなど。哲学の野心はとどまるところを知らない」(p.3)。
 「旅人がある人に道を尋ねると、彼はこう答えたという「オレがそこに行くんなら、ここからは出発しないけどね」」(p.7)。
 「常識は出発点であって、目的地ではないのだ」(p.12)。
 「しかし、データにはランダム誤差がつきものである。実際問題として科学者がデータに完璧にフィットする方程式を常に選ぼうとすると、データが不正確であっても、それにフィットする酷く複雑な式を選ばざるをえない。しかも、新たなデータが手に入るたび、それにフィットするいっそう複雑な新しい式に乗り換えることを余儀なくされる。結局この繰り返しで、いつまでも安定した結論には到達できない。これがオーバーフィッティングだ」(p.95)。
 「しかし、哲学は「別のものたるべし」という圧力に絶えずさらされてもいる。生き方のアドバイス、政治論、人の道の教え、文法のレッスン、神を認めない宗教、難解で読みにくい文学、通俗物理学、通俗生物学、通俗心理学、通俗脳科学、さらには計算や世論調査であったり」(p.170)。

夢枕獏著『歓喜月の孔雀舞(パヴァーヌ)』2023年04月17日 22:07

 表題作の中編と短編六編収録。表題作は一九八六年発表で、著者が螺旋の主題を展開し始める最初期の作品。螺旋と月のイメージを東北の山奥に伝わる呪術に結び付けた筋立てで、後の『上弦の月を喰べる獅子』に連なるものとして興味深く読んだ。また「檜垣----闇法師----」は、桜と死霊を重ね合わせたイメージが美しくも恐ろしい。坂口安吾や梶井基次郎の例を出すまでもなく、雨のように花びらを散らす桜には死に通ずる妖しさがある。

日本SF作家クラブ編『2084年のSF』2023年04月21日 22:18

 書き下ろしアンソロジー。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』から百年後の2084年を描いたSF作品集である。希望に溢れる未来、というようなものを描いた作品は一つもない。葛藤がなければ物語にならないという理由だけではなく、明るい未来を予想させる要素が現代に少ないからであろう。つまり楽観的未来を描いてもリアリティがない。
 ディストピアを描いたものも多い中で、高野史緒「未来への言葉」は、名も知らぬ人同士が助け合おうとする姿を描いていて、『火星の人』にも似たさわやかな読後感。
 三方行成「自分の墓で泣いてください」は仮想の墓地、仮「葬」空間を舞台にしたドタバタ喜劇。一応この空間がどのようなものかという説明はあるのだが、読み処はナンセンスな展開にある。「ぐずぐずしてはいられない。ゾンビが出たら葬式は終わりである」(p.72)。人の生死を笑うのは古来よりのブラックユーモアの伝統だが、時代の変化が新たなギャグを生み出す。
 これも喜劇の竹田人造「見守りカメラ is watching you」は、未来の老人ホームから脱走しようとする佐助爺さんの話。佐助の試みは、介護ドローンや警備ドローンによってことごとく阻止される。佐助の認知症に付け込んで、気を逸らし何をしようといたか忘れさせてしまう、というギャグ。
 草野原々「かえるのからだのかたち」は、人間が撤退した廃墟の火星植民地で、細胞を材料としたロボットが増殖し、都市生物としての自己同一性を獲得していく話。自己同一性確立のために、事実としての歴史とは別に、物語としての「神話」を作ろうとするところが非常に面白い。ユングっぽい。
 俺が一番好きなのは倉田タカシ「火星のザッカーバーグ」である。シュール系で、矛盾する描写が何の説明もなく断片的に羅列されている。「人類がついに火星に到達したとき、火星にはすでに人類が到達していた」(p.602)、「大統領は脳を所有していないことが確認された。大統領は脳を所有していたが、使用していなかったことが明らかになった」(p.604)、といった具合。「探査隊を派遣した超大国の指導者が、宇宙船の到着直前に突如「犬も人類に含める」と宣言した」(p.605)。滅茶苦茶である。どうやら、無責任な噂話や都市伝説、フェイクニュースなどが並列的に混ぜ合わされているらしいということは薄っすら判るのだが、本当のところ何がどうなっているのかははっきりしないまま終わる。

石川宗生他著『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー』2023年04月23日 22:52

 テーマアンソロジーなのだが、序文も後記もなく、どういう趣旨や経緯かという説明は何もない。カバーに「改変歴史SFアンソロジー」とあればそれで判るだろうということか。潔いと言えば言える。それを言えば、講談社文庫の「タイガ」というシリーズの一冊なのだが、タイガがどういうものなのかも示されていない。ホームページURLはあるので、知りたければそちらを見よということか。そう言えば、俺は白水uブックスの「u」の意味も知らない。改変歴史SFと言っても「あの時こうなっていたら現在はどう変わっていたか」という構成の話は一編もない。全て「我々が知っている歴史とは少し、あるいは非常に違った過去の話」である。
 石川宗生「うたう蜘蛛」は、中世の欧州人に二〇世紀のハードロックを聞かせたらどうなるか、という話。「あなたがたに免疫がないのも無理からぬこと。いま演奏しているのはガンズ・アンド・ローゼスの『ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル』をアレンジしたものですから」(p.68)。中心アイデアも面白いが、主人公というか視点人物の「スペイン領ナポリ王国総督ペドロ・アルバレス・デ・トレド」という人物が、老人であり一国の指導者でありながら非常に不真面目な人物で、ただ自分の興味を満たすことだけしか考えていなくて、非常に共感できる。
 宮内悠介「パニック----一九六五年のSNS」は、一九六五年の日本に、世界先駆けてデジタル情報通信システムが普及し、ベトナム戦争を取材した開高健が炎上する話が、宮内悠介らしい実録スタイルで描かれる。
 伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」は、未来か過去かわからぬフランスで、政党のプロパガンダのために、シミュレーション空間の中で何千回も生き返って人生を繰り返す羽目になったジャンヌ・ダルクの話。ジャンヌ・ダルクは前回の生の記憶を持って生き返るので、その知識を使ってついに全世界を征服するまでになるが、繰り返すうちにそれに倦む。