永井均著『<私>の存在の比類なさ』2024年02月18日 23:41

 独在性に関する論文を集めたもの。著者は「学術文庫版へのまえがき」において、本書を次のように位置付けている。
 「自分自身の歩みを現在の時点から振り返って、それを前期と後期に二分してみると、これは過渡期の諸論文を集めたものという性格を持つ」(p.3)。
 「すると本書は、基本的には独在論にかんする「入門書」として位置づけられる」(p.3)。
 これに基づくなら、ここに記すべき本書についてのメモとしては、独在論に関する部分を引用要約するべきであるが、もちろん、ここでは俺の関心に引っかかった部分しか引用要約はしない。
 「人々は、頑ななまでに新しい問題提起というものに鈍感で、かつ拒絶的である。そして、どういうわけか、問題が世の中で少しでも注目されるようになると、今度は精確に理解しようともせずに、さまざまな角度からその問題の悪口を言って、なんとかそれを旧来の枠組みに押し込めて抹殺してしまおうとする人が、次々と現れるのである。自分にとって異質な問題が存在するということ自体がたえがたいような人々がいるらしいのだ」(p.8)。
 デカルト的な「私」と「近代的自我」について。「なぜならば、近代的であるとは、いっさいの唯一性を否定し、すべてを同等なるものの複数性において語ろうとする志向をもつことであるのに対して、ここでデカルト的であるとは、本質的に隣人(同等なるもの)をもちえない唯一なるものとしてのこの私の存在にどこまでも固執することを意味するからである。近代とは、ひとことで言えば、等質空間の捏造の時代であり、デカルト的であることは、まさにその等質性こそを疑うことなのである」(p.20)。
 「そしてわれわれは、かりにではなく、また任意ではない一個の身体の立場にすでに立ってしまっている。そのことによって、すでに宇宙の選択をし終えてしまっているのである。ひとつの身体が自分であるという事実は、ひとつの宇宙が選択されているということである。そして、他の宇宙は選択されていないということである。現に自分がこの世に存在しているとは、そういうことだろう」(p.151)。
 次の引用はB・マクギネス著『ウィトゲンシュタイン評伝』とレイ・モンク著『ウィトゲンシュタイン 1・2』の永井均による書評の最後の文章である。俺にはまだよく理解できていないのだが、何となく元気が出る文章なので引用しておく。「だが、もし独我論が霊(=精神)の問題ではなく存在の問題であるとすれば、「外的世界に対する希望なき闘いのなか」でさえ、なお厳密に独我論的であることができるし、それは有意味なまた幸福な生ともなりうるのではないか。そんな思考の可能性はありえないだろうか」(p.264)。
 「言語と非言語との境は、差異と実質の境である」(p.266)。
 「ヴィトゲンシュタインは、実質に何らかの意味を与えることを拒絶した差異の哲学者である、とみなすことができる。それはソシュールが差異の言語学者であったことと呼応している」(p.271)。

永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』2024年02月20日 23:35

 「まず第一に、この本は「哲学」の本であって、人物紹介の本ではない。そして第二に、この本は入門書であって、解説書や概説書ではない」(p.7)。
 「問題の本質を伝えるためにことがらを単純化し、正確さや厳密さを犠牲にすることを厭いはしなかったが、問題の本質そのものは、少しも水準を下げずに伝えたつもりである。問題そのものをわかりやすくしてしまうような入門書なら読まない方がよい、と私は思っている」(p.9)。
 「優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。このことはどんなに強調してもし過ぎることはない。なぜなら、すべての誤解は、哲学者の仕事を既成の問題に対する回答と見なすところから始まるからである」(p.9)。
 「ある哲学者と問題を共有したとき、それによって世界の見え方が変わり、人生の意味が変わる。だが、世界の見え方も、人生の意味も、一般的に言って変えるべき理由はないし、またとりわけ、ウィトゲンシュタイン的に変えるべき理由は全然ない。どんな哲学も、その真髄は少数の人にしか理解されない、というより、そもそも少数の人にしか関わりを持たない」(p.10)。
 「前期、中期、後期を通して、ウィトゲンシュタインは、倫理、宗教、形而上学、独我論、といった超越的な語りえぬものについての直観をほとんど変えなかった。どのように語りえないか、その位置づけ方に変化があっただけである。しかし、世界の形式である先験的な語りえぬものについての見解は、前期、中期、後期を通じて、大きく変化・進展した。ウィトゲンシュタイン哲学の展開過程とは、実のところは、もっぱらこの部分の進展なのである。「論理」「文法」「生(活)」にそれぞれ「形式」という語を付与したもの----論理形式、文法形式、生活形式----が、それぞれの時期の語りえぬものを示している」(p.27)。
 『論考』における世界の限界としての「私」について。「もちろん読者は、それを一般的な先験的=超越論的自我として読む。それ以外に読みようがないのだから、それは当然のことである。だが、著者にとってはそうではない。世界内の偶然的諸事実を超える二種類の語りえぬもの、つまり、本書の用語でいう先験的なものと超越論的なものとは、序章で述べたこの私の存在という奇跡によって、ただそれによってのみ、かろうじて結びつけられているのである」(p.83)。
 「この考察(規則に従うということをめぐるパラドックス)を通じて、ウィトゲンシュタインは、我々の言語ゲームは(明示的に立てられうる)規則(ルール)から成り立っているのではなく、(盲目的に遂行される)慣習(プラクティス)によってできている、という見解に達することになった。この見解が語の意味の問題に適用された結果が、有名な「語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である」というテーゼである」(p.133)。
 「誰にも見られない花びんはありうるが、誰にも感じられない痛みはありえない。後者においては、主体と対象を分離することができず、したがって、主体が対象を知覚するという図式も成り立たない」(p.141)。
 「彼(ウィトゲンシュタイン)は後期において、たとえ語らなくなっても、いや語らなくなったからこそ、絶対主義的な倫理観を堅持していた。これは明らかなことだ。それと並行的に、独我論に関しても、彼は後期においてそれを放棄したのではない。ただ独我論的な語りのすべてを、言語ゲームの外へ追放したのである。こうして、独我論という「論」は無意味なものとなった」(p.143)。
 言語ゲームすべてを貫く共通の本質は何か。「ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似しているものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた」(p.152)。
 「言語ゲームはあるがままに受け入れるしかない与件である。それには根拠がなく、それがすべての根拠である」(p.155)。
 「確かに人は規則に私的に従うことができない。だが、私的に従われる規則とはどんなものなのか、そもそもわれわれは例示することができない」(p.180)。
 「後に残るのは、言語ゲームの中で語りえず、それを実践することの内に示されるなどとも言えないものである。しかし、それなくしては何もないと同じであるようなものである。だが、もしそれを神秘と呼べば、その瞬間にその神秘を語る言語ゲームが成立してしまう、という意味で、決して語りえぬものである。こうして、彼はもはや「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉すら発することはできない、発してはならない地点まで歩みぬいた」(p.216)。
 それを直接語ることはできず、語りえるものを語りつくして限界づけることによってのみ、その輪郭が示される。「語り」を「観測」に入れ替えればそのままブラックホールの話になるな。