鴻上尚史著『具体的で実行可能!なほがらか人生相談』2025年05月08日 23:12

 雑誌の連載をまとめたもの。連載は今も続いている。ほとんどは人間関係に関するものである。テレビの『博士ちゃん』を見ていると、博士ちゃんは自殺しないだろうな、と思う。人間関係が駄目でも他に居場所があるからである。
 「どどさんが「性根が短気でプライドが高く負けず嫌い」なのは、「自分自身に自信がないから」だと僕は思います」(p.24)。
 「「どうしたら私は彼女を手放す事ができるでしょうか」と書かれていますが、毎日、ボーッとして、ヤケになって、苦しんで、他のことで気を紛らわして、それでも思い出して泣いて、叫んで、少しずつ少しずつ、忘れていくことしか、失恋の治療はないのです」(p.52)。
 「じつは自信のない演出家とか経験の浅い演出家ほど、とにかく支持したがります。俳優の意見を聞かないし、自分の弱みを見せないのです」(p.201)。
 「「心配してもしょうがないこと」と「心配する意味があること」を分けるのです」(p.217)。
 「でも、自分に向けるエネルギーが減ると、必然的に相手を観察するエネルギーが増えてきます。俳優はそうやって成長するのです」(p.257)。
 「「演劇を仕事にするという決断を下すことを躊躇してしまう自分がいる」と書かれていますが、躊躇うならやめときなさい、です。/躊躇っている人は、本当に好きな人に勝てません」(p.270)。

林譲治著『知能侵蝕』全四巻2025年05月13日 22:07

 長編。侵略もの。203X年、つまり今から十年後くらいの近未来、突然、地球の衛星軌道上から使用期限の過ぎた人工衛星やデブリなどが移動をはじめ、一つの軌道に集まり始める。どうやら異星の文明が「資源」を集めているらしい。資源回収がひそかに地球上でも行われていることが判ると、地球の各国はそれを阻止しようとし始める。同時に、「宇宙人」との意思疎通も試みられるが、全く反応がない。それどころか、地球人の目に触れるのは、ミリマシン、チューバーと名付けられた機械だけで、オビックと名付けられた宇宙人の本体はどんな姿をしているかすら判らない。オビックは資源確保のために人間を利用したり排除したりし始め、地球側はこれに対抗、つまり武力攻撃を決意する。
 というのが主筋だが、物語は、地球各国政府間のパワーゲームや、防衛省を含む日本の硬直した官僚組織の非合理さや非効率さで、オビックへの対策が進まない描写に多くが費やされる。「機龍警察」シリーズでも官僚批判的な内容が多いけど、こういうのは受けるのだろう。確かに面白いのだけれども、リアルすぎてうんざりするところもある。現実に毎日見てるから。
 ものすごく有能なのに、癖が強いために冷遇されている研究者や自衛官たちが、組織を出し抜くようにして大活躍するところにはカタルシスがある。

森岡浩之著『プライベートな星間戦争』2025年05月15日 21:45

 長編。第一部は天使の物語。天使たちは彼らが「大地」と呼ぶ惑星の周囲に展開する宇宙船を住処とする。天使たちの役割は、悪魔の侵攻から大地を守ることである。それを命じたのは神である。天使たちにとって神は絶対で、疑ってはならないものである。天使たちは悪魔と戦うために神が生み出したものであり、それが天使たちの存在理由である。この辺で読者は神と天使の関係に「不健全さ」を感じるように誘導される。悪魔の住処である天体「魔ノ巣」は、刻々と近付いており、天使たちは日々それに備えている。そしてついに「決戦」の時が訪れる。
 第二部は、仮想世界の物語。人類が仮想空間に人格を転写して永遠の生命を謳歌している時代。地球上、そして太陽系内では仮想世界を走らせるためのサーバーが不足して、形骸の恒星系へと「墦種」が進んでいる。恒星インティに構築された「ライミ世界」へ、ある時、「移住者」がやってくる。他の恒星に構築された世界から、人格データがレーザーでやってくるのだ。しかしそれは、人格データではなく仮想世界を破壊するハッキングプログラムだった。
 ただ一人生き残った人格であるススムは、復讐のため、データを送り込んできた世界へと旅立つ。その星こそ、天使たちが守る「大地」だった。つまり、天使たちから見た悪魔はススムだったのである。擦れたSFファンから見たら陳腐な筋立てかもしれぬが、第二部の終盤で二つの世界が交錯するところはなかなかわくわくする。

高野史緒著『ビブリオフォリア・ラプソディ』2025年05月17日 22:21

 短編集。それぞれの作品の主人公は、小説家、翻訳家、評論家、詩人、編集者などの文芸書籍にかかわる人たち。目立つのは、売れない作家や作家志望者の無垢な創作意欲と、成功への野心や屈折した過剰な自己顕示欲との葛藤である。一般の人々から見れば、エキセントリックに見えるであろうが、業界では多いというかむしろ典型ではなかろうか。見方によっては喜劇的というか、筒井康隆なら悪意を持って喜劇にしたであろうが、高野史緒は彼らに共感し、共に傷付く。
 「私は、私は羨ましいのだ。小説を書く者たちが、小説を書き続ける者たちが、書くに足りることを持つ者たちが、才能のある者たちが。努力ができる者たちが。羨ましくて、妬ましくて、そして好きで、食べてしまいたいほど愛しているから、だから食べてしまうのだ」(p.124「木曜日のルリユール」)。

九段理江著『東京都同情塔』2025年05月19日 22:46

 中編。舞台は2020年代すなわち現代だが、現実には撤回されたザハ・ハディド設計の新国立競技場が建設され、コロナ禍の中2020年に東京オリンピックが実施された、もう一つの東京。「東京都同情塔」とは、犯罪を犯したものを収容する一種の刑務所だが、外出が許されない他はタワーマンションかホテルのように快適な住居である。正式名称は「シンパシータワートーキョー」。
 主な登場人物は四人。東京都同情塔の設計者である牧名沙羅。沙羅の美しいボーイフレンドの拓人。「犯罪者は同情すべき人々である」という東京都同情塔の思想的背景を作り上げた幸福学者のマサキ・セト。そして、「不寛容で正しくないレイシスト」のジャーナリストのマックス・クライン。この四人の誰もが、奇妙な世界観や人間観を持っている。
 例えば、牧名沙羅は次のように考える。「……でなければならない。……べきだ。それは私が自分自身を支えるために用意する、堅固な柱であり梁だった。私がいつもこのような話し方をして他人にも自分自身にもプレッシャーを与えがちなのは、わずかでも倒壊の可能性のある曖昧な要素を、自分の住まう家から根こそぎ排除しておきたいからなのかもしれない。……かもしれない、……のほうが良い、などとセメントで固める前の砂のように脆い素材では、寿命までの数十年を支えていくことはできない」(p.33)。といった具合。
 四人はそれぞれ、東京都同情塔という同じ対象に対して、異なる印象や解釈を持ち、相互に理解し合うことはない。
 この作品はある種の日本論としての面も持つ。マックス・クラインは次のように言う。
 「タクト、日本語を知らない私に、君たちの言葉の秘密を教えてくれないか? ホモだかミゼラだかピリスだか知らないが、日本語とは縁もゆかりもない言語から新しい言葉を次々と生み出して、みずからの言葉を混乱させる理由は何なんだ?(略)言葉を無限に生成することで、何を覆い隠そうとしているんだ? もし仮に、日本人が日本語を捨てたら、何が残るんだ?」(p.105)。
 日本人論の面を持つにもかかわらず、東京都同情塔が日本社会に与えた影響などはほとんど描かれないのも大変に興味深い。