養老孟司著『わからないので面白い 僕はこんなふうに考えてきた』 ― 2025年02月08日 23:08
一九九六年から二〇〇七年に「中央公論」に断続的に連載した時評エッセイから編者が選んだもの。
「自然を「管理しよう」という人間の意識は、環境問題を引き起こしてきた。その根本は、「秩序的活動は無秩序をどこかに排出する」という大原則を忘れたことにある」(p.47)。
「先日、福井県の田舎に行った。土地の人が冬場に水を張った田んぼを作っていて、これなら農薬がいらない、おかげでいろいろな生きものが田んぼで生きていると、教えてくれた。そういう人がいるということは、まだ可能性があるということである」(p.55)。
「どうせ日本の農家は八割が兼業である。それなら逆にさまざまな試みができるはずである」(p.56)。
「命とはなにか、それを自分がきちんと理解しているのであれば、他の命を絶つときに、祈ったり感謝したりするのは、バカらしいことに違いない。ところがその命を人が創ることができないということは、命とはなにか、それが人間には本当にはわかっていないということである。正体のわからないもの、しかしその恩恵を日常受けているもの、そういうものを簡単に壊していいか。ダメに決まっているではないか」(p.91)。
「科学は生きものを作る方向になんか、進歩していない。むしろどんどん壊すほうへと進んでいる。世界の現状を素直に見れば、それは明らかであろう。だからいまでは、子どもですら自殺するのである」(p.96)。
「現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である」(p.116)。
「どうせアメリカと意見が同じになるのだから、外務省はいらないといった人もある」(p.162)。
「私は人間の不幸の何割かは、まじめさから生じると思っている。アメリカ人はまじめで、実はこれが迷惑のもとである。(略)日本では金持ち喧嘩せずという。それならアメリカは実は貧乏なのかもしれない。あれだけの資源を持ち、個人当たりでも世界一のエネルギー消費量を誇る国である。それがなんで喧嘩をするのか、そこがアメリカ人のまじめさであろう。まじめもほどほどがいいのである」(p.163)。
「自然を「管理しよう」という人間の意識は、環境問題を引き起こしてきた。その根本は、「秩序的活動は無秩序をどこかに排出する」という大原則を忘れたことにある」(p.47)。
「先日、福井県の田舎に行った。土地の人が冬場に水を張った田んぼを作っていて、これなら農薬がいらない、おかげでいろいろな生きものが田んぼで生きていると、教えてくれた。そういう人がいるということは、まだ可能性があるということである」(p.55)。
「どうせ日本の農家は八割が兼業である。それなら逆にさまざまな試みができるはずである」(p.56)。
「命とはなにか、それを自分がきちんと理解しているのであれば、他の命を絶つときに、祈ったり感謝したりするのは、バカらしいことに違いない。ところがその命を人が創ることができないということは、命とはなにか、それが人間には本当にはわかっていないということである。正体のわからないもの、しかしその恩恵を日常受けているもの、そういうものを簡単に壊していいか。ダメに決まっているではないか」(p.91)。
「科学は生きものを作る方向になんか、進歩していない。むしろどんどん壊すほうへと進んでいる。世界の現状を素直に見れば、それは明らかであろう。だからいまでは、子どもですら自殺するのである」(p.96)。
「現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である」(p.116)。
「どうせアメリカと意見が同じになるのだから、外務省はいらないといった人もある」(p.162)。
「私は人間の不幸の何割かは、まじめさから生じると思っている。アメリカ人はまじめで、実はこれが迷惑のもとである。(略)日本では金持ち喧嘩せずという。それならアメリカは実は貧乏なのかもしれない。あれだけの資源を持ち、個人当たりでも世界一のエネルギー消費量を誇る国である。それがなんで喧嘩をするのか、そこがアメリカ人のまじめさであろう。まじめもほどほどがいいのである」(p.163)。
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