ルーシー・ウッド著『潜水鐘に乗って』2024年03月09日 21:40

 幻想短編集。どの作品でも、妖精、巨人、願いごとをかなえる木、魔犬などなどさまざまな神秘的存在が、妙に現実的な世界に入り込んで来る。その神秘たちとの距離感が面白い。彼らは、登場人物たちの日常に入り込み心を乱すが、人間たちの行為には殆ど反応せず、コミュニケーションがとれているのかどうかもよく判らない。にもかかわらず、それらは単なる自然現象ではなく、やはり神秘としか言い様がないあの「超越的生命性」を持っている。
 「精霊たちの家」の一編だけは、人間ではなく神秘の視点で描かれている。「家の精霊たち」だが、彼らの側から見ても、人間たちは試みだす存在でありながらコミュニケーションできないのである。人間たちはその家にどこからかやって来てはしばらく暮らすと去って行く。それが同じ人なのか違う人なのか精霊たちには見分けがつかない。「わたしたちは、顔を覚えるのが苦手だ」読者は哀れを覚えるが、精霊たちが悲しんでいるかどうかは良く判らない。

トーン・テレヘン著『いちばんの願い』2024年03月11日 01:18

 著者の動物童話シリーズ。「63のどうぶつそれぞれに、まったくばらばらの、奇妙で切実な願いがある」(カバー袖)。
 「じつは、とクマは考えた。満腹で椅子の背にもたれ、口元についたケーキのくずを拭きながら、ぼくのいちばんの願いはもう二度とケーキを食べないことだ」(p.13)。
 「アブラムシはベッドの下に潜り込み、ほこりにむせ、じぶんのいちばんの願いはけっして、いかなることがあろうと実現しないにちがいない、と思った。願いの、ほんのひとかけらさえも」(p.19)。
 コガネムシ「もしいちばんの願いがあったとしたら、それはもう二度と失望しないことだっただろう----軽い失望も含めて」(p.58)。
 「だれもがいちばんの願いをもっている、と聞いたとき、ザリガニは思った。でもオレはもっていない。オレはいちばんの願いの反対のものをもっている。ザリガニはいちばんひどいことが自分に起こってほしかった」(p.65)。
 「いちばんの願いがなんであるか、ナマケモノに訊ねてみる必要はなかった。一目瞭然だったから」(p.73)。
 「マンモスは眠ってはいないが、起きてもいなかった。絶滅しているのはそのどちらともちがう、とマンモスは思った」(p.74)。
 「カバ」のエピソードは、意地っ張りなサイと卑屈なカバのちょっとしたいさかいの話だが、もう、身悶えするほど可愛らしい。
 「カブトムシのいちばんの願いは、自分だけでなく全員が陰気であることだった」(p.145)。
 著者の描く動物たちはいつも誰も妄想が暴走しがちである。愛らしく、滑稽で、少しシュールで、少し悲しい。おもろうてやがて悲しき、と言えば松竹新喜劇だが。

永井均著『存在と時間 哲学探究1』2024年03月11日 22:16

 「哲学探究」全三巻の一巻目。シリーズ名からして、著者のこれまでの研究の集大成に成るのであろう。一巻目では、永井均の根本問題である、<私>と<今>の問題が扱われるが、「語りの原理」と「繋がりの原理」など、新しい言葉も出て来る。終盤は主に、<私>と<今>の似ている処と似てない処について語られる。
 「哲学は、まだ客観的な学問になっていないがなりうるはずの主題を発見し、できるかぎり情緒的・隠喩的表現を廃して、それを客観性のある知的主題に仕立て上げていこうとする試みなのである」(p.11)。
 「この問いは要するに、なぜ私という例外的なものが存在するのか、という問いであり、それが存在するとは何が存在することなのか、という問いである」(p.17)。
 「対して、私が問おうとしている問いは、私であるという例外的なあり方をした存在者の存在そのものを、つまり、なぜこんな例外的なものが存在しているのか、それが存在するとは何が存在することなのか、といったことを問おうとしているのだから、当然のことながら、私のいない世界では成立しようがない」(p.25)。
 「すべての人間に----それどころか、すべての生き物に----意識状態があるのに、なぜ現実にはある一つの意識しか感じられないのか。逆の形で表現するなら、なぜ一つだけ現に感じられる意識が存在するのか。この差異は何が生み出しているのか」(p.26)。
 「こう言ったからといって、<私>も<今>もまったく存在しないと言いたいわけではない。それらは、われわれの直観能力に基づく客観的時間空間という条件づけを経由しないものとして、つまり「物自体」として、いきなり、剥き出しで、ただ存在するのである」(p.72)。
 「ああでもないこうでもないと、これだけ論じてきたが、実は肝心なことは何も明らかになっていない。そもそも明らかになりようがないことを論じてきたからである」(p.322)。
 「何であるか少しも分からないのは、問題が本質的に類型化を拒絶しているからである。どんな原因から生じたか分からないのは、それゆえに本質的に因果的把握が不可能だからである。しかし、そういう現実があり、じつはそれがすべての出発点になっている。ここでなされたのは、類型化の拒絶のされ方の類型化の試みにすぎない」(p.324)。

村上春樹著『海辺のカフカ 上下』2024年03月12日 22:32

 二系列の関連する物語が同時に進行し、それが章毎に交互に語られる。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ構成である。
 第一の物語は、十五歳の少年である村田カフカの一人称で語られる。物語の開始時点では、家出の具体的な理由ははっきり説明されないが、読み進めていくうちに、カフカ少年の母は少年が四歳のときに姉を連れて家を出て行ってしまい、少年は見捨てられたように感じている事が判る。更に、少年は父から予言あるいは呪いを受けている。「お前はいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わり、姉とともいつか交わるだろう」。ギリシア悲劇の『オイディプス王』の予言の変形である。
 少年は家出してすぐに象徴的にあるいはメタフォリックに姉の位置におさまる女性に出会い、現実に母かもしれない女性と出会う。そして少年は報道で父の死を知る。距離的には不可能だが、少年は自分が殺したのではないかと疑う。
 第二の物語はもっとずっと神秘的あるいは幻想的である。太平洋戦争終戦直前、十六人の小学児童が同時に意識を失うという原因不明の事件が起る。他の児童はすぐに意識を取り戻すが、一人だけ目覚めない少年がいた。三週間後に目覚めた彼、ナカタは、すべての記憶を失っていたばかりか、知的障害を負い、文字の読み書きもできなくなっていた。六十歳になったナカタは相変わらず読み書きができなかったが、猫と話ができた。
 そんなナカタの前に、猫を捕まえて殺す男、ジョニー・ウォーカーが現れる。ジョニー・ウォーカーはウヰスキーのラベルに描かれているあの男そっくりの格好をしている。ちなみにこの後カーネル・サンダースも登場する。ナカタはそんなつもりはなかったのだが、ジョニー・ウォーカーの猫殺しを阻止するために彼を殺してしまう。実はジョニー・ウォーカーこそが村田カフカ少年の父親だったのである。
 そしてナカタは自分でも説明できない使命感に駆られて「入り口の石」を探すために村田カフカのいる四国へ向かう。こうして、物語は神話的に展開していく。
 モチーフとしては「オイディプス」だが、カフカ少年の物語の終盤は「冥界に行って帰って来る」という「オルフェウス」か「イザナギイザナミ」のような筋立てになっている。
 カフカ少年の指導的な位置に立つ人物が三人いて、象徴的な姉であるさくら、母かも知れない女性の佐伯、そして大島という青年である。後に大島は性同一性障害の女性である事が判る。つまり三人とも女性なのだが、それには意味があるような気がするのだが良く判らない。保護者的な神話元型としてグレートマザーがあるが、男性的な指導者のオールドワイズマンという元型だってあるのだ。父を殺し母親から自立していく少年、という形式の面もあるが、そんな薄っぺらい話でもないと思う。何か、母性というものの功罪二面と関係がありそうな気がしている。
 元型といえば、愚者でありながら賢者でもあるという意味でナカタはトリックスターだが、途中からナカタの旅の手助けをするホシノという青年が非常に面白い。善良でも正直でもないちゃらんぽらんなお兄ちゃんで、親切からと言うより「ここまで来たら成り行きを見ずには去れない」という好奇心から付いて行ってるうちに、ナカタのことが気に入ってしまうのである。そして、ナカタを助けながら旅しているとホシノ青年に大きな変化が起こる。それまで週刊誌以外にまともな本を読んだことがなかった無教養なホシノ青年が、トリュフォーの映画に興味を持ち、ベートーベンの『大公トリオ』に心酔するようになっていく。
 結局のところ何が起ったのか、という「神秘の全体像」は最後まで示されない。まあ、全部判ったら神秘ではないわけだが、もうちょっとどこに何が繋がってどこへ向かっていたのかが見えても良かった気もする。あるいは逆に全くの不条理小説にしちゃうとか。その辺は趣味だろうけど。そういう意味では、高山羽根子は全く俺の趣味に合う。

中沢新一著『悪党的思考』2024年03月13日 21:55

 日本の歴史を「自然とともに暮らし多様性を本質とする「滑らかな空間」の住人である川の民、海の民、山の民」と「農耕地や都市などで暮らし画一性を本質とする「仕切られた空間」の住人」との確執と、それらの権力との関係から捉えようとするエッセイ集。全体に著者の叔父である網野善彦の影が濃い。
 「「キヨメ」はちりやあくたや、はいせつ物や死体を、すみやかに社会空間の外部に運び出す。それによって、社会空間は清浄にたもたれ、そのなかで均質化された記号でできた象徴の体系が円滑に作動しだす。社会空間は境界領域を、この「キヨメ」の行為をとおしてみえなくしてしまおうとするのだ。その意味では、「キヨメ」の仕事は、ひとつの世界の象徴機能がうまく作動していくために、欠かせないものとなる。ところが、それによって「キヨメ」の仕事にたずさわる人々の、社会の中での位置はきわめて微妙なものになっていく。彼らは象徴機能とその外部との両方にまたがって生きることになるからだ。彼らの仕事があってはじめて、社会の象徴機能は働きだすことができる。しかし、彼らはそのとき排除されるものといっしょに、象徴機能の外部にも触れることになるからだ。「キヨメ」は象徴というものが生まれでてくる、その境界面に起る事態を掌握している。そしてまさにそのことによって、社会の内側にいる人びとにとって、いかがわしさや危険をはらんだ人々のように思われるようになる」(p.59「歴史のボヘミアン理論へ」)。
 「彼ら(職人)は自然の素材に取り組む。しかし、彼らの「技芸」は自然の自然的なプロセスが決してあらわにしないような、その本質をあらわなものとしてひきだしてくるのだ。自然に素手で取り組みながら、けっして自然的とはいえないやりかたで、かくれた本質を顕在化させる」(p.64「歴史のボヘミアン理論へ」)。
 「「職人」が宗教者とごく近い場所に位置づけられたり、宗教者そのものが「職人」と呼ばれていたことの理由も、たぶんこのあたりにある。宗教者は程度のちがいこそあれ、ほうっておいたらいつまでもあらわれてはこない世界の奥底にかくれている真理を、あらわなものにもたらす仕事にかかわっている人々だ」(p.68「歴史のボヘミアン理論へ」)。
 「私の考えでは、宗教というのは、人間現象の「底部」に、なんらかの形で「穴」がうがたれ、そこから社会的に価値があるものとされているものとは異質な何かが、人間の内部に侵入や出入りをくりかえすときに発生する現象なのである。人間現象の「底部」から侵入をくりかえすその「何か」を、たんなる異常とみなすような社会では、それは宗教とは呼ばれずに、病理としてのとりあつかいを受ける。あるいは、宗教現象そのものが、異常で変態的なものとして、扱われることになる。ところが、「バクティ(宗教的な没入)」的なものへの感覚を失っていない社会では、人間の内部への、その異質なるものの侵入こそが、その人間がたんなる人間であることを越えて、神的な真理に近づいたことの証であるものとして、高い価値をあたえられることになる」(p.382「解説----その後の悪党的思考」)。
 「それまでの時代、おそらくは縄文と呼ばれる時代以来ずっと、「富」は見えるものと見えないものの境界面、人間の世界に存在しているものとそうではなくて神や仏の世界に属しているものとの境界面に発生する、ひとつのパッセージ(過ぎ越すこと)を内部にはらんだ現象としてとらえられてきた。人々はさまざまな労働をとおして、自然の見えない世界の内部から、その境界面をとおして、何ものかを、「富」としてとりだしてくる。そして、そのとりだしの技にたくみな者を、「職人」と総称した。「富」には、ひとつのパッセージのしるしが、きざまれている。「富」が人間の世界に出現するたびに、そこでは人間にとっての異質の領域からの、力にみちた「なにもの」かの侵入や通過がはたされるのだ。/ところが、貨幣はそのパッセージのプロセスを、凍結してしまう力をもっている」(p.384「解説----その後の悪党的思考」)。
 「権力の根拠は、すでに死んでこの世にはいない先祖の王たちや、存在の世界をおびやかす死の領域にひそむ魔的な力とのつながりで、とらえられていたのだ。古代と中世の天皇制は、権力の根拠を、そのような死とのつながりのもとで、維持してきた。ところが、日本史に発生した切断は、すべてのものを、すでに存在し、これからも存在しつづけるものの確かさとして思考するような、精神の変化をもたらすようになったのである。そのために、権力者は、みずからの権力の根拠を、いままでとはちがうところにみいださなくてはならなくなった」(p.385「解説----その後の悪党的思考」)。