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    <title>かすてら読書録</title>
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    <pubDate>Mon, 30 Mar 2026 21:27:53 +0900</pubDate>
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      <title>カスガ著『コミケへの聖歌』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/03/30/9845245</link>
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      <pubDate>Mon, 30 Mar 2026 21:26:37 +0900</pubDate>
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      <description>　長編。舞台は文明崩壊後の日本。人々は森の中に集落を作り、中世のような厳格に身分の分かれた封建的社会で暮らしていた。平均寿命は五十歳代で、女たちの多くは十代のうちに子供を産む。主人公は四人の少女、といっても、遠くない将来に結婚し子供を産むであろう、つかの間の少女時代を生きている女性たちである。彼女たちは廃墟から掘り出された漫画に熱中し、漫画同好会を作って自分たちでも漫画を描いている。彼女たちはそれぞれに身分制社会に疑問や憤りを持っているが、社会を変えるような力はなく、閉塞感と無力感の中で生きていた。ある時、彼女たちの一人が「今では「廃京」となっている東京へ、漫画のユートピアである「コミケ」を探しに行こう」と言い出す。&#13;&lt;br&gt;
　あるのかどうかも判らないどころか、存在しない可能性の方が高そうなコミケを探しに行く、という設定が良い。冒険的であり、滑稽でもあり、そして物悲しい。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>マーガレット・アトウッド著『ダンシング・ガールズ』</title>
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      <pubDate>Wed, 25 Mar 2026 22:17:55 +0900</pubDate>
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      <description>　著者の初期短編集だが、後の『侍女の物語』に通じるフェミニズムやマイノリティの主題が見える。全体に、主人公が普段無意識に目を逸らせている現実を、強引にというか否応なくというか、直視させられる、というような内容が多い。神秘的なことは何も起こらないが、カフカ的不条理間、閉塞感、無力感を感じさせる。&#13;&lt;br&gt;
　「キッチン・ドア」の主人公は田舎町に住む主婦。彼女はごく希薄な根拠から破滅を予感しており、そこに至る過程を詳細に想像している。それは、どことどこの国が戦争をして、戦況がどのように展開するか、というような大局的な話ではない。彼女の生活がどのように変化していくかが事細かに思い描かれる。まず報道が変化する。悪いニュースが流れなくなり、やがて報道自体が少なくなり、ラジオはやたらにクラシック音楽を流したりし始める。政府による報道管制が引かれるのだ。そして物流が滞り始める。やがて彼方で煙が立ち昇る。幾筋も。根拠がはっきりしないので妄想と呼ぶべきものなのだが、なぜか強い現実感がある。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>テリー・イーグルトン著『文学とは何か』上下</title>
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      <pubDate>Fri, 20 Mar 2026 22:54:40 +0900</pubDate>
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      <description>　邦題は「文学とは何か」となっているが、解説されているのは「文学」ではなく「文学理論」あるいは「文学批評」である。「英語英文学(イングリッシュ)批評」を中心に、近代文学批評を、批判的に解説していく。特に、文学理論はイデオロギーそのものではないにしても、イデオロギーと深くかかわりあっており、政治性を持たない、純粋な立場や公正無私で無垢な文学理論というものを認めず、そのように主張し、一見そのように見える文学理論も、広い意味では必ず政治性を帯びているという。&#13;&lt;br&gt;
　ここでいうイデオロギーとか政治性とかいうのは、社会や生活、人々の人間観や歴史観を望む方向に誘導したり圧力をかけたりすること、つまり権力の構造のことである。&#13;&lt;br&gt;
　文学理論はイデオロギーから逃れることは不可能なのだから、批評家はそれに意識的になれ、というのが本書の形式的な主張である。「形式的な」というのは、理屈の上ではこの「広い意味でのイデオロギー」は、どのような立場でもあってよいし、著者もそのように言っているのだが、実際には著者の立場は「マルクス主義批評とフェミニズム批評、ポストコロニアル批評などが融合したカルチュラル・スタディーズ」というようなところにあり、意識的無意識的にそちらに寄って行っているからである。&#13;&lt;br&gt;
　本書を読んで俺が考えたことは、このイデオロギーに文学自体を代入することもできるな、ということである。こういう「芸術のための芸術」みたいな話は、それこそ外部性を失って閉じていきそうになることもあるが、著者の説に従えば、文学理論はあらゆる外部を巻き込んでいくことができるはずである。&#13;&lt;br&gt;
　「文学理論を解説する際に、「中立的(ニュートラル)」で、価値観に左右されない語り方などないというのが持論だから、私は終始一貫して自分に関心のある主張について論じている」(上　p.21)。&#13;&lt;br&gt;
　「文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとはたんなる個人的嗜好のことではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し、権力を維持していくのに役立つもろもろの前提のことを指す」(上　p.58)。&#13;&lt;br&gt;
　「ガダマーにとって、過去の作品の解釈とは、過去と現在との対話によって構成される。過去の作品と出会うとき、私たちは、その作品が発する聞き慣れぬ声に、まず賢明なるハイデガー的虚心を持って耳を傾ける。しかし、逆に考えれば、作品が私たちに「語りかける」ものは、私たちの時代の観点からその作品にむけて投げかける問いの種類によっても左右されるだろう。あるいはまた、その作品自身が一つの「解答」となるような「問い」をうまく再構成する私たちの能力に、すべてがかかっているとも言える。そもそも作品というのは、作品が属している時代との対話の産物でもあるからだ。了解とはすべて生産的なものである。それはつねに「べつのかたちの了解」であり、テクストの中に潜んでいる新たな潜在的意味の実現であり、テクストの差異化である」(上　p.175)。&#13;&lt;br&gt;
　「受容理論は、文学における読者の役割を究明する。そしてこの点でも、かなり新しい展開であると言える。その新しさは、近代の文学理論を大雑把に三段階に区切ってみればよくわかる。最初に、作者に対する関心(ロマン主義および十九世紀)。次に、テクストのみに限定された関心(〈新批評〉)。そして最後に、ここ数年顕著になった、読者に対する関心の移行」(上　p.182)。&#13;&lt;br&gt;
　「めったに気づくことはないにせよ、私たちはしょっちゅうテクストの意味について仮説をあれこれと立てているのだ。読者は、隠されたつながりを見出し、空白部を埋め、憶測を立て、推理を確認しながら進む、そしてこれは、読者が、広くは世界に関する暗黙の知識に、狭くは文学上の約束事に関する暗黙の知識に、依拠することを意味する。テクストとは、読者に言語の断片を意味あるものに構築するよう誘う、一連の「合図(キュー)」以外のなにものでもない。受容理論の用語を使えば、読者は文学作品を「具体化(コンクレタイズ)する」」(上　p.186)。&#13;&lt;br&gt;
　「もし私たちが、読書のストラテジーによってテクストを修正するのだとしたら、テクストのほうも同時に私たちを修正する」(上　p.192)。&#13;&lt;br&gt;
　「伝統的な批評は、文学作品を作家の精神がのぞける窓に還元してしまうことが多かったとすれば、構造主義はどうやら、作品を普遍的精神のうかがえる窓に還元してしまったようだ」(上　p.265)。&#13;&lt;br&gt;
　「最初にあった意味は、後続する意味によって修正を受ける。しかも、一個の文の場合にはこのプロセスに終わりがあるものの、言語そのものの場合には、このプロセスに終わりはない」(下　p.10)。&#13;&lt;br&gt;
「容認可能なものと容認不可能なもの、自己と自己にあらざるもの、真実と虚偽、意味と無意味、理性と狂気、中心と周辺、表層と深層、この両者の間にゆるぎない境界線を引くことをイデオロギーは好む」(下　p.21)。&#13;&lt;br&gt;
　「批評にとってもっとも関心をそそられるテクストとは、読みうるテクストではなく、「書きうる scripteble」テクスト----みずからテクストを造形し、それをさまざまに異なる言説へと書き換え、作品そのものにさからいつつ、準恣意的な意味の戯れを産出するように批評家をうながすテクスト----である。このとき、読者あるいは批評家は、消費者の役割から生産者の役割へと移行する」(下　p.30)。&#13;&lt;br&gt;
　「あらゆる文学テクストは、他の文学テクストから織りあげられる。これは文学テクストには他のテクストの「影響」の痕跡があるという伝統的な意味ではなく、あらゆる語、あらゆる語句、あらゆる部分が、その作品に先行しその作品をとりまく他のエクリチュールの再加工にすぎぬという、もっとラディカルな意味からそう言えるのだ。文学的な「オリジナリティ」なるものは存在しない。「最初の」文学作品なるものは存在しない。あらゆる文学は、「間(インター)テクスト的」なのだ」(下　p.31)。&#13;&lt;br&gt;
　「ポスト構造主義にあっては、「批評」と「創作」との間に明確な区分はない」(下　p.35)。&#13;&lt;br&gt;
　「しかし、ラカンにとっては、私たちの言説はある意味で、すべて言い間違いである」(下　p.99)。&#13;&lt;br&gt;
　「あらゆる著述(ライティング)のつねとして、文学作品の洞察(インサイト)は、それがかかえる死角(ブラインドネス)と深い関係にある。作品が語っていないこと、および作品がいかにしてそれを語らないでいるかということは、作品が分節化していることに劣らず重要だとも言える。作品に不在(アブセント)であるもの、周辺的(マージナル)で、両面価値的(アンビバレント)だと思われるものが、作品の意味を理解する鍵を提供するかもしれないのだ」(下　p.120)。&#13;&lt;br&gt;
　「したがって私たちはこう結論せざるをえない。本書は、文学理論への手引書(イントロダクション)ではなくて文学理路への死亡記事(オビチュアリー)であり、本書のなかで多くの人に理解してもらえるよう苦心惨憺して掘り起こしてきた文学理論を、いま私たちは埋葬して終わらんとしている、と」(下　p.177)。&#13;&lt;br&gt;
　「知は、文化的コンテクストと関係している。そのため、世界を「あるがまま」に知ると主張することは、単なる妄想にすぎない----私たちの理解は、どうしても、部分的で偏向的な解釈によりかかるほかないからだが、それ以上に、解釈以前の世界そのものが存在しないからでもある。真理は、解釈の産物であり、事実はディスクールによって構築されたものであり、客観性は、眉唾物の解釈がいつしか大手をふってまかりとおるようになったものであり、人間主体は、彼もしくは彼女が考察する現実と同様、虚構にすぎない。人間主体とは、拡散的で自己分裂的で、そこにはいかなる固定した本性なり本質もない……。こうしたことすべてをひっくるめて考えると、ポストモダン性をめぐる議論とは、フリードリッヒ・ニーチェの哲学に関する詳しい脚注の一種である。ちなみにニーチェは、十九世紀ヨーロッパにおいて、いま述べたような主張のそのほとんどすべてを先取りしていたのである」(下　p.234)。&lt;br&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>上田早夕里著『成層圏の墓標』</title>
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      <pubDate>Sun, 08 Mar 2026 22:15:44 +0900</pubDate>
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      <description>　短編集。全体に、眉村卓のジュブナイルを連想させるような、清潔感の感じられる作品が多い。不思議なことに「異形コレクション」に収録されたホラー的な作品にもどことなく「健全さ」が感じられるのである。「健全とは何か」がよく判らなくなっているこの時代にどうしてそのようなことが可能なのか。誠実で公平、ということかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
　そのことと無関係ではないと思うが、ＳＦらしい異常な出来事や状況が描かれるが、ほとんどの作品で主人公となるのは、状況にかかわる重要な、あるいは特別な人物ではなく、状況に翻弄される名もなき人々である。&#13;&lt;br&gt;
　俺が一番気に入ったのは「車夫と三匹の妖狐」。明治から大正期の東京で、妖狐の娘たちを人力車に乗せて駆け巡った車夫の話である。妖狐に殺されたはずの車夫仲間とすれ違う場面が奇妙に迫力がある。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>犬怪寅日子著『羊式型人間模擬機』</title>
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      <pubDate>Mon, 02 Mar 2026 22:20:50 +0900</pubDate>
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      <description>　中編。第十二回ハヤカワＳＦコンテスト大賞受賞作品。人物の名前からすると日本のようだが、地域も時代もはっきりしない、広大な領地の大きな屋敷に住む一族の物語。一族の男子は死に際して羊に変身する。毛を刈る家畜の羊だ。そして一族の者はその羊の肉を食べる風習というか掟がある。解体作業を担うのは、世代を超えて一族に仕え続ける一体のアンドロイド。数世代にわたる一族の物語が、このアンドロイドの視点で語られる。アンドロイドには「不完全な感情」のようなものがあるが、自分でそれを持て余しているようである。山尾悠子を連想させる幻想小説であり、俺はガルシア・マルケスの『百年の孤独』をちょっと思い出した。&#13;&lt;br&gt;
　俺の最も好きなエピソードは「嫁取り」の話である。一族は外部から配偶者を迎えるにあたっては、婿ならば娘の父親が、嫁ならば息子の母親が自由に選ぶという決まりがある。一族の歴史においては、地図に矢を刺すなど乱暴な選び方をする者もあった。自らも義母に選ばれて嫁となった日向は、自分の金を盗んだ浮浪児の少女を息子の嫁にしようとする。日向と少女の間の緊張感が良い。やがて一族に嫁いだ少女が生む四人の子供たちもみな面白い個性を持っていて魅力的である。&#13;&lt;br&gt;
　選考では神林長平が強力に推したという。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>藤井太洋著『まるで渡り鳥のように』</title>
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      <pubDate>Fri, 27 Feb 2026 21:43:12 +0900</pubDate>
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      <description>　短編集。科学技術の未来や、未来の人間社会を描いたものが多い。人類の現状を鑑みるに不安になる要素ばかりだが、著者の作品にはいつも希望が残されている。以前、俺は著者について「日本ＳＦ会の楽観担当」と呼んだことがあるが、芯から楽観的なのか、「せめて虚構の中では希望を」と考えて意識してそうしているのかはわからない。「オウムの夢と操り人形」などはその典型で、批判的に語られることが多い「イライザ問題」に、希望の持てる結末を付けている。俺が一番好きなのは巻末の「祖母の龍」で、伝統的な知恵としての民族舞踊が、太陽コロナという宇宙の現象と共鳴する話である。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>筒井康隆著『筒井康隆自伝』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/02/14/9836651</link>
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      <pubDate>Sat, 14 Feb 2026 21:47:15 +0900</pubDate>
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      <description>　筒井康隆の著作には日記も多く、思い出を語ったエッセイなどもあるので、ファンはある程度その人生を知っているのだが、改めて読んでも面白い。ファンとはそういうものであろう。俺には、「オール讀物」の編集長だった豊田健次との確執が特に面白かった。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>酉島伝法著『無常商店街』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/02/12/9836243</link>
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      <pubDate>Thu, 12 Feb 2026 18:47:34 +0900</pubDate>
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      <description>　連作短編三編収録。翻訳家の宮原は姉からの電話で「猫の世話をしてくれ」と留守番を頼まれ、見知らぬ街に滞在することになる。姉から近づくなと注意されていた商店街に迷い込んでしまった宮原は、抜け出せなくなる。三編とも、一見日常的な街から異様な世界に迷い込んでいく話である。まず、空間が歪んでいく。&#13;&lt;br&gt;
　「左に進んでみると案の定一本道に繋がってほっとしたが、回転焼きの店は一考に現れない。おかしいな、と後ろに向けば二叉で、どちらの道の先にも二叉が見える」(p.25)。&#13;&lt;br&gt;
　さらに「どこまで行っても見たことのない、それでいてどこにもあるような寂れた商店街の景色ばかりが続く。地図で見た無常商店街の広さを遥かに超えているとしか思えなかった。湾曲した道に差し掛かってカーブミラーが現れ、そこに自分の後ろ姿が映っているのが見えた」(p.26)。&#13;&lt;br&gt;
　ついには空間が螺旋状に捻じれ、建物は融合し、店先に並ぶ商品も変容して何が売っているのかわからなくなる。変容は人間にも及び、捻じれた街を行き交う人々の姿も奇怪である。&#13;&lt;br&gt;
　「顔面が一対の翼だけで羽ばたきながら歩いている人、膨張しすぎた頭部をさみ垂れ式に引きずって歩く人、烏賊の漏斗のごとき突起を八方に突き出してせわしなく呼吸しながらも行き苦しげな人、複数の顔の集合がざぬざぬと位置を変えながら五体を保っている人」(p.41)。&#13;&lt;br&gt;
　現象には妙な理屈がついているが、宮原にも読者にも何のことやら全く判らない。「表相で何かを見て想起した過程が、こちらの相で視覚投影されたのでしょう。咬融域でノージェンス擦過が起きているときには、内面と同期しやすいですしね」(p.35)。どうやら宮原の姉が務めている研究所では、これらの現象研究しているらしかった。&#13;&lt;br&gt;
　この後、宮原は異界の街の御神体にされてしまった姉を救い出すため、ある「踊り」の特訓を始める。全体にユーモラスな語り口なのだが、ただヘンテコな街をさまよう話ではなく、無理矢理エンターテインメント的な筋立てにしてあるところもなんだがおかしい。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>小川哲著『言語化するための小説思考』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/02/07/9835377</link>
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      <pubDate>Sat, 07 Feb 2026 20:53:38 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-02-07T20:58:34+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　判型は完全に新書版で、内容もある種の研究解説なのだが、なぜか講談社現代新書のシリーズになっておらず、独立した単行本となっている。小説の書き方を考察したエッセイだが、これから小説を書こうとする人のための入門書というよりは、著者自身が小説を書く時の過程を分析したもの。&#13;&lt;br&gt;
　著者は「小説はコミュニケーションである」と断言する。俺とはずいぶん小説観が違うな、と思う。読み進めていくと、言葉遣いが独特なだけで俺と似た部分も多いとわかる。「僕の考えでは、答えのある問いは「小説」ではない」(p.131)。この一文などは強く共感する。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、最後まで共感できない感じも残った。最大の違和感は、何と言うか「小説の人格性」への言及が全くないことである。小説の登場人物の人格性ではない。小説の人格性である。俺の考えでは、小説作品は作家とも読者とも異なる、ある種独立した人格のようなものを持っている。作者が決めるのでも読者が決めるのでもない、小説作品自身が独自に持っている「良さ」のようなもの。これは俺独自の言葉遣いなので伝わらないかもしれないが、優れた小説作品は「いのち」を持つ。&#13;&lt;br&gt;
　「文章で何かを表現するとき、「順番」をどうするか決める必要がある。というか、僕は「順番」を決めること以上に重要な要素はない、と考えていたりもする。視点をどうするか、修飾語を増やすか、どういう比喩を使うか、一文の長さはどうするか----そういう点に頭を悩ます人は多いが、そもそも正しい「順番」で書くことができなければ意味がない。「情報の順番」は小説という空間の立ち上げ方を規定する。書き手が生み出した小説空間に、読み手をどのように招き入れるかを決める。そういう意味において非常に重要な要素なのだが、実際にはあまり考慮されていないような気もする」(p.48)。&#13;&lt;br&gt;
　「「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか、と僕は考えていて、それを実践するために書いた文章なのだ」(p.50)。&#13;&lt;br&gt;
　「とはいえ、「読みやすい」ことは「価値がある」ことと同義ではない」(p.50)。&#13;&lt;br&gt;
　「そもそも文章は三次元の現実世界(と脳内の思弁)を一次元的なリニアな記号に置き換えたものであるので、情報の順番にはかならず恣意性が伴うものなのだが、その恣意性をどう扱うかという点に「文体」の根底が生まれるのではないか」(p.50)。&#13;&lt;br&gt;
　「と、僕は今、自分が置かれた状況を可能な限り文章にしようとしたのだが、これは小説ではない。なぜ小説ではないのかというと、展開を暗示していないからだ。この文章が小説になるためには、この後に話が展開しなければならないし、話が展開していったときに、ここで書かれた文章が暗示の役割を担わなければならない」(p.82)。&#13;&lt;br&gt;
　「これらの例と同じく、多くの場合、小説にも「象徴的で影響力の大きな出来事」か、あるいは「象徴的で影響力の大きな出来事の伏線」ばかりが描かれている」(p.84)。&#13;&lt;br&gt;
　「小説の書き手にとって唯一の手がかりは「自分が面白いと感じるかどうか」であるのに、小説を評価する基準は常に「読者(他者)が面白いと感じるかどうか」であり、この「原理的に埋められない差」が埋まらなければ、小説は面白くならない」(p.102)。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
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    <item>
      <title>津原泰水著『バレエメカニック』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/02/06/9835187</link>
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      <pubDate>Fri, 06 Feb 2026 22:22:04 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-02-06T22:24:54+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　長編。耽美＋幻想+サイバーパンク。理沙は、大脳皮質を失い植物状態のまま「生き続けて」いる。ある日、突然、東京が奇怪な幻想に包まれる。ラジオはモーツァルトしか流れず、海から離れた高速道路を突如津波が襲い、見上げるほどの巨大な蜘蛛が町を闊歩した。理沙が失った大脳皮質の代わりに都市全体を「思考の場」として利用し始めたのだ。東京は理沙の夢の中に包み込まれたのである。&#13;&lt;br&gt;
　それらの幻想は、単なる幻覚なのか、実体を持っていのかがよく判らない。ある老人が幻想の中に足を踏み入れた途端「重力の向き」が変わって墜落していく場面は鮮烈だ。そして老人は「墜落死」する。幻想に殺されたのだ。&#13;&lt;br&gt;
　機械装置は信頼できないので、巨大なばんえい馬が牽く馬車に乗って、何が現実なのか曖昧なまま、理沙の父親と主治医が東京を旅するのが第一章の主筋である。酩酊感を伴うシュルリアリスティックな詩情が素晴らしい。後に「理沙パニック」と名付けられるこの現象は、理沙の肉体の死によって収まる。&#13;&lt;br&gt;
　第二章では、理沙の父親は、東京の町に理沙の意識は残っていると信じて、その証拠を探し出そうとする。再び主治医と二人の旅が始まる。&#13;&lt;br&gt;
　第三章は完全なサイバーパンクである。近未来、年老いた理沙の主治医は、充実した情報インフラの中に構築された仮想空間を通じて、理沙を探し出して「殺そうと」あるいは「解放しようと」する。&#13;&lt;br&gt;
　解説で柳下毅一郎はＪ・Ｇ・バラードを引き合いに出しているが、奇怪かつ華やかな幻想の背後に、確かにバラードに通じる「静謐」があるように感じられる。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>白川静・梅原猛著『呪の思想 神と人との間』</title>
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      <pubDate>Sat, 31 Jan 2026 22:01:35 +0900</pubDate>
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      <description>　対談。主に古代中国の詩と孔子に関する話題。白川静だから漢字の分析もある。面白かったのは、古代中国の詩には「呪術的意味」があったとするところ。それをたとえば朱子学などは合理的に解釈しようとするから本質を捕らえ損ねている、という。自分が中国の歴史を知らないことに愕然とする。知らねばならないことは多い。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
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      <title>原聖著『ケルトとは何か』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/01/27/9833280</link>
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      <pubDate>Tue, 27 Jan 2026 22:01:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-01-27T22:05:10+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　ケルト研究の総合的な解説書。&#13;&lt;br&gt;
　第一章では、いったんはほとんど途絶えてしまったケルト文化を、近代以降に再現しようとした「創られた伝統」について。我々がケルトと聞いて思い浮かべるアーサー王伝説や音楽などは、実は古代ケルト文化とは必ずしも連続性がなく、「ヨーロッパナショナリズム」のようなイデオロギーを補強するために、無理に再現された面があるというような話。&#13;&lt;br&gt;
　第二章から第四章は、ケルトの美術や文芸などの解説。&#13;&lt;br&gt;
　第五章では、近代に想像された伝統ではなく、古代から継続されてきた文化として「言語」に注目し、ケルト人の移動とケルト文化の伝播について。&#13;&lt;br&gt;
　第六章は、現代のケルト諸語の保存活動について。&#13;&lt;br&gt;
　ケルト人やケルト文化の歴史や特徴がよくわかって面白かった。しかし、これは縄文研究などでも思うことだが、ケルト人はどんな生活をしていたのか、どんな宇宙観や人間観を持っていたのかなどはほとんどわからなかった。そこが知りたいのだが。&#13;&lt;br&gt;
　「社会言語学、とりわけ移民たちの言語の研究によれば、言語は通常、三代で取って替わる。移民第一世代は母語でない現地の言葉の習得には苦労するが、第二世代は教育を現地の学校で受けるので、ふつうはバイリンガル、二言語使用者として育つ。そして、第三世代になると、家庭の言語も現地の言語となり、言語の移転が完成する、ということになる」(p.91)。&#13;&lt;br&gt;
　「歴史的にはこの逆の言語移転、すなわち移住した言語が生き残り、現地の言語が消滅することもあった。たとえば中南米のスペイン語であり、北米の英語である」(p.91)。&#13;&lt;br&gt;
　「このように、言語の取替えは、支配者側から押し付けられるものではなく、その言語がより大きな威信を持つかどうかによるのである。/さらにいえば、この「威信」には書きことばの存在が大きくものをいうといっていいだろう。書きことばが整備されることは、標準的書きことばが流通する、すなわち文字を理解する人々がいるということであり、それが文化的威信の指標となるのである。もちろん、書きことばの存在以前の段階では、物質文化の「質」の問題、豊かさのレベルが文化的威信ということになるだろう」(p.93)。&#13;&lt;br&gt;
　「韻文というのは、文章の音節数を一定にしたり、文章末の音を同一にする技法だが、声に出して初めて意味を持つ技であり、口頭伝承のなかで鍛えられるといっていい。しかしながら、これが書きことばの規範成立のもとになったのである。なぜかといえば、韻文の規範が複雑になると、書いて検証することが必要になるからである」(p.101)。&#13;&lt;br&gt;
　「こうした話者数が一〇〇〇人にも満たないような極少数言語は、運動家の存在に左右される。それがひとりだけであれば、統一的な復興運動が可能だが、こうした言語運動は総じて知識人たちが主体となるので、そういうわけにはいかない。運動家各自がそれぞれ理論武装をして、さまざまな原則が主張され、まとまらないことがけっこうある。さまざまな言語運動の様子を観察している私の感想からいえば、小さい言語ほど、こうした分裂状態に陥るようだ。それは自分たちでやっていくしかないという思い入れの強さの表現でもある。こうした状況では外からの助言はなかなか難しい」(p.224)。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>養老孟司・久石譲著『脳は耳で感動する』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/01/22/9832304</link>
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      <pubDate>Thu, 22 Jan 2026 22:05:06 +0900</pubDate>
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      <description>　対談。2009年に刊行された『耳で考える』に新たな対談を加えたもの。&#13;&lt;br&gt;
　養老「使えるんですよ、言葉は確かに。呪いの言葉にもつかえる。だから、昔はそれに対して祝詞というものがあった。「ことほぐ言葉」があった。ただ、今の世の中は寿ぎの言葉がどんどん消え失せて、呪いの言葉が非常に増えてきたような気がします」(p.130)。&#13;&lt;br&gt;
　養老「言葉というものは、何でもないことを豊かにしてくれるものであるべき。それがプラトンでしょう？　さっきのね。今は世界を痩せさせるために使っている気がする。だから、言葉狩りをしたり、失言を大げさにとらえたり、バカなことばっかりしているんですよ。物差しが狂っている」(p.141)。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>宮内悠介著『作家の黒歴史 デビュー前の日記たち』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/01/21/9832095</link>
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      <pubDate>Wed, 21 Jan 2026 18:32:07 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-01-21T18:33:42+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　作家が自分の書いたデビュー前の日記を紹介し、それを現在の視点で解説したり分析したり批判したりするという構成。作家志望者らしい屈折した過剰な自意識、それと誠実であろう公正であろうとする姿勢、善とは何か悪とは何かを追求しようてする姿勢が印象に残る。&#13;&lt;br&gt;
　「価値観がどう変遷したかの俯瞰。得たものや失ったものの整理。かつての時代を振り返ること。自分にとって言葉とは何か。いろいろとポイントはありそうに思うけれど、読み返してみたところ、結局は生命そのもの----それも通常であれば発表されえないタイプの生命の息吹をお見せしたかっただけのような気がしてきた。つまり、恥ずかしくて、間違ってて、でもソウルだけは横溢していた昔の日記を」(p.322)。&#13;&lt;br&gt;
　確かに生命の息吹は横溢しているが、デビュー前ということもあり、その息吹は出口を求めて鬱屈し、暗く苦悩と悲しみの気配が漂う。&#13;&lt;br&gt;
　「ただ、著名人に対する視線は厳しかった。世界のどこかで紛争が勃発した際などには、作家は態度を表明しなければならないと考え、それをやらない者を監視し、心の中の「臆病者リスト」に入れたりもしていた。なんていうか、もうちょっと純粋だった。そして全体主義者的だった。赤の他人に自分と同様の行動を期待するのは、距離感というものを間違えているし、やはりそれは全体主義的であると言えるだろう」(p.10)。&#13;&lt;br&gt;
　「やりがいを持てと人は言うものの、やりがいというものはけっこうな割合で、人を溺れさせる重りにもなる」(p.61)。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
    </item>
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      <title>松村一男著『世界のはじまりの神話学』</title>
      <link>https://castela.asablo.jp/blog/2026/01/15/9830908</link>
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      <pubDate>Thu, 15 Jan 2026 22:20:47 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-01-15T22:22:24+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　ものごとの始まり、いわゆる起源神話に関する解説書。世界、人間、火と食物の起源について、世界の神話を比較する。似ている点、異なる点を抜き出して、例えば、世界両親型、世界巨人型、宇宙卵型などに類型をまとめていく。また、日本神話が天皇支配の正当性を示そうとしていることや、聖書のイヴやギリシアのパンドラに見られる女性蔑視は編纂者が男性であることを推測させることなど、歴史や社会の神話への影響も考察される。&#13;&lt;br&gt;
　これは、比較神話学として大変に正しい視点なのだが、個人的には「神話に描かれているイメージそのものの面白さ」にも言及してほしかった。そういう意味では、最後近くで紹介された、ドゴン族の神話における「天から糸でぶら下がって降りてくる巨大な籠」というエレベーターのようなイメージが大変に面白かった。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>本</dc:subject>
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