柴田元幸・高橋源一郎著『小説の読み方、書き方、訳し方』2022年04月24日 23:06

20年11月24日読了。
 対談。
 無意識的なものを解放する、「頭を使わなくする」ことについて。「頭を使わなくするためには、ある程度は勉強しないとだめです。語学の勉強って、語学のことを考えなくていいためにするものだと思います」(柴田p.25)。
 「他人については『なんできみはそういうふうに思うの』とか、『なんでこう書いたの』とか訊いたりしますけど、この世界全体について、『なぜ』と問うてもしょうがないという気持ちはすごく強いんでしょうね。何か僕らのやっていることに意味があるはずだっていう前提は、最初からないですね」(柴田p.31)。
 「詩を書いている人は他人に興味を持たない人が多いのかもしれないと思う時があります。詩には人間を登場させなくてもいいでしょう、極端なことを言うと石でもいいし、太陽でも色でもいい」(高橋p.34)。
 「この世界はコードでできているわけだから、そういう(コードが目についてしまう)人間とってそのことを抜きにして何かを書くというのは無理なんですね。その場合、選択肢は三つあります。(1)わかっているけれども面倒臭いからコード通りに書く。/(2)コードのあるものは書けないので書かない。/(3)『コードがあるよ』と書く/この三つしかないんです」(高橋p.45)。
 「全否定の論理はまったく正しいのだけれども、原理主義は基本的に何も生み出さない。正しいものでなければ、すべて灰燼に帰すわけですから。僕は仮に間違っていても、それがプラスになって何ものかを生み出すほうがいいという立場をとっています。間違ってもよし。ただし間違っているとわかった上でやればいい」(高橋p.47)。
 「原理主義者から言えば、完璧でなければ自由ではないですよね。九〇パーセントの自由というのはそもそも自由とは言えないものです。では、それゆえに不完全な自由を全部拒否するのか、投影された自由、現実化された自由を求めるべきなのかというのは、こちら側の選択の問題であり、四迷は不完全な自由を拒否したわけです。だが、『生きる』ということは、現実の中で『生きる』ということに他ならないでしょう。実現される自由とは、原理的な自由の不完全な写像だと思うんです。そして、それができるのが文学の仕事なのではないかというのが、僕の考えです」(高橋p.56)。
 アメリカの自意識について。「やっぱり国の成り立ち方が、『われわれはこういう国だ』っていう言葉による宣言からはじめたということが大きいのではないかと思います。つまり王様の首を切ることではなくて、『私は何々である』と規定することからはじめられたというか、はじめなければならなかったという背景の影響ではないでしょうか。国の発生事情からして、自意識の文学が生まれることが必然であった、と」(柴田p.91)。
 「つまりアメリカっていうのは出自が怪しいということですよね。(略)独立宣言というものも『われわれは自由である』と、いきなり『自由』という概念が出てくるんだけど、でもその自由の根拠となるものはどこにもない」(高橋p.92)。
 「アメリカの作家と話していてもみんな言うのは、アメリカっていうのは要するに一つのアイディアなんだ、ということです」(柴田p.92)。
 「日本の言葉っていうのは要するに前例ですからね。日本で『日本はこういう国だ』という時には今までの歴史のことを言っている。一方、アメリカというのは、いまだあらざるものを言葉にし、まだないものに向かって自分が動いて行く」(柴田p.95)。
 「アメリカ文学というものをひとことで言うと、アメリカを発見しようとしてできないということかなと……」(高橋p.95)。
 「アメリカの場合にもヨーロッパという先行者がいるんだけど、いないことにしてしまうわけですよね。いなかったことにして『俺からはじまるんだ』と言い切ってしまう。それは当然強がりだから、どうしてももの言いは自意識過剰にならざるを得ない。『俺が最初だ』とでかい声で言うっていうのはどこかで出遅れたのかなという思いがあるわけですから」(柴田p.99)。
 冷戦終結とモダニズムについて。「九一年における世界レベルでの『敵』の消滅は僕が言ったモダニズムというか闘争の美学というか、敵をやっつけるまさに自他の区別、そのものの消滅だったわけです。もっとも手強い他者をいかに殲滅するかというのがモダニズムの考え方だとすれば、敵がいなくなったらモダニズムは根拠を失ってしまうことになる」(高橋p.107)。
 「敵がいないと落ち着けないということはたぶん誰でもそうで、どんな簡単な子どものお話でもたいてい悪者が出てくる。そしてアメリカみたいに理念的に作られた国では、子どものお話と実はそんなに変わらないレベルで悪者を必要としていると思うんです。(略)9・11はそうやって見ると、アメリカが敵を探さなくても向こうから来て、そのあと『悪の枢軸』とか言ってあちこちに自分と違う敵を探し続けているわけですから、やっていることは全然変わっていないという気がしますね。だからモダニズムを全然卒業していない(笑)」(柴田p.107)。
 「近代文学においては、強い敵と戦うというのが文学のテーマだったわけです。要するに、ずっと権威と戦っていたんですね。ところが、ある時期から権威がなくなってしまった。それはまさに父親だったり政治権力だったんですけど、戦う相手が取り敢えずなくなった段階で戦うことへの疑問が出てきた。つまり戦いって何なのか、戦うというのはもちろん敵、自分にとっての悪をやっつけるということですが、悪っていうのは規定できないんじゃないかっていう疑問になってくる。そこから現代文学の彷徨がはじまっちゃったのかもしれない。やっぱり闘わないと格好がつかないというか、することがない」(p.110)。
 「歴史の本を読めば歴史がわかるし法律の本を読めば法律がわかるんだけど、文学を読むとなぜか文学がわかるのではなくて人生がわかると考えられていた時期があったわけですよね。そう考えると、要するに今まではもしかしたら人格形成のために小説を読むことが正しいとされていたわけですが、それは実は不純な読み方だったかもしれなくて、今は要するに正しい読者だけが残っているのかなという気もしますね」(柴田p.198)。
 対話の多くは、文体の問題やコードの問題に費やされる。つまり小説内部の問題。外部の問題としても、現代をどう取り入れるか、という問題に触れられているに過ぎない。もうちょっと普遍的な、人類一般とか、宇宙とか、そういう処と文学がつながる可能性みたいな話に行かないことが、俺にはちょっと欲求不満である。そんなことを言えば、自分でやれ、と言われるであろうが。

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