養老孟司 玄侑宗久著『脳と魂』 ― 2020年07月11日 22:38
16年 7月19日読了。
対談。
「椅子とテーブルの生活になったでしょ。ところが、椅子とテーブルの生活でどういうふうに立ち居振る舞いをしたらいいか、私は一度も教わった覚えがないですよ。これはひどいと思うのね。建築屋ってのは専門家なんだろうけど、非常に総合的な学問としての建築がなかったわけですね」(p.16)。
「僕はそれ、数学を教わった時にしみじみ思いましたよ。公理から教えるでしょ。これはまったく逆なんです。例えばユークリッド幾何学。幾何学が発達してくる過程で、最終的に公理に向かって煮詰まっていくわけですよ。それを教える時は逆に公理から教える」(p.84)。
対談。
「椅子とテーブルの生活になったでしょ。ところが、椅子とテーブルの生活でどういうふうに立ち居振る舞いをしたらいいか、私は一度も教わった覚えがないですよ。これはひどいと思うのね。建築屋ってのは専門家なんだろうけど、非常に総合的な学問としての建築がなかったわけですね」(p.16)。
「僕はそれ、数学を教わった時にしみじみ思いましたよ。公理から教えるでしょ。これはまったく逆なんです。例えばユークリッド幾何学。幾何学が発達してくる過程で、最終的に公理に向かって煮詰まっていくわけですよ。それを教える時は逆に公理から教える」(p.84)。
養老孟司著『私の脳はなぜ虫が好きか?』 ― 2020年07月12日 21:26
16年 7月21日読了。
虫に纏わるエッセイ。
「一番重要なことをまず決める。それさえ決まると、あとは自動的に決まる。本当に機能することが要求されている場合には、必ずそうなるのである。その優先順位が決まらないのは、本当はどうでもいいことだからである」(p.18)。
「虫が大切。それがまず決まれば、あとは自然に決まってしまう。世の中の人は、ふつうはその種の見方ができなくなっている。世間では虫好きは世間知らずだと思っているが、見ようによっては、世間の人が人生知らずなのである」(p.19)。
「生物は環境に依存して生きる。これだけ環境を変えたヒトという生物が、自分だけ変わらないで済むなどと思っているのだとしたら、ずいぶん気楽なものだというしかない。そんなことがそもそも可能なはずがない。環境変化が遺伝子操作という技術の形でヒト自信の身に直接及ぶとき、はじめて人間は、自分のしてきたことを『身につまされて』考えるであろう」(p.61)。
「ツルカナ湖西岸とは、どんなところか。ナイロビの空港でつれづれなるままに買った英国の案内書を読んだ。たしかにツルカナ湖西岸という項目がある。まず『ここには見るべきものはなにもない』とある。次いで『ここまで来たという達成感が唯一の報酬となる』とある。ここに行こうと決めたのは、ディレクターの高城氏である。どういうつもりか、それは知らない」(p.152)。
「多様性とは、単に虫の種類が多いということではないであろう。多種類の生物が、全体としてある構造をなして暮らしている、そういう状況をいうのだと思う。だから種が絶滅すれば、その構造が変化する。こうした構造を生態系と表現するのがふつうである。しかしその生態系を具体的につかまえようとすると、きわめてむずかしい」(p.143)。
「仮に数キロメートル程度の生態系の単位があるとすると、その境界とはなんであろうか。そうした境界がなぜ崩れないのか。それともたえず崩れながら、再建されるのか。そもそも生きものの単位を種とか個体と考えていいのだろうか。ある生態的な単位に含まれる全種の全個体が、なんらかの構造を全体として組み立てている。そう考えたほうが『生態的』ではないだろうか。比喩としていうのは簡単だが、それを実際にモデルとして組み立てるのは、容易ではないはずである。因果なことに、そういう厄介なことを考えるのが、私の趣味なのである」(p.145)。
「やりたいことを、やればいいじゃないか。そういうと、あなたはできるからいいですよと言い返される。できるもできないも、やらなきゃ、なにもできないのである。あらかじめ自分にはできないと、どうして思うのか。それがわからない」(p.156)。
「だから意地悪く言うなら、痛いとか苦しいとか、そういう症状が出ればシメたものである。やっと医者の言うことを聞く気になる。ただし、そのときは手遅れかもしれない。それが環境問題なのである」(p.167)。
虫に纏わるエッセイ。
「一番重要なことをまず決める。それさえ決まると、あとは自動的に決まる。本当に機能することが要求されている場合には、必ずそうなるのである。その優先順位が決まらないのは、本当はどうでもいいことだからである」(p.18)。
「虫が大切。それがまず決まれば、あとは自然に決まってしまう。世の中の人は、ふつうはその種の見方ができなくなっている。世間では虫好きは世間知らずだと思っているが、見ようによっては、世間の人が人生知らずなのである」(p.19)。
「生物は環境に依存して生きる。これだけ環境を変えたヒトという生物が、自分だけ変わらないで済むなどと思っているのだとしたら、ずいぶん気楽なものだというしかない。そんなことがそもそも可能なはずがない。環境変化が遺伝子操作という技術の形でヒト自信の身に直接及ぶとき、はじめて人間は、自分のしてきたことを『身につまされて』考えるであろう」(p.61)。
「ツルカナ湖西岸とは、どんなところか。ナイロビの空港でつれづれなるままに買った英国の案内書を読んだ。たしかにツルカナ湖西岸という項目がある。まず『ここには見るべきものはなにもない』とある。次いで『ここまで来たという達成感が唯一の報酬となる』とある。ここに行こうと決めたのは、ディレクターの高城氏である。どういうつもりか、それは知らない」(p.152)。
「多様性とは、単に虫の種類が多いということではないであろう。多種類の生物が、全体としてある構造をなして暮らしている、そういう状況をいうのだと思う。だから種が絶滅すれば、その構造が変化する。こうした構造を生態系と表現するのがふつうである。しかしその生態系を具体的につかまえようとすると、きわめてむずかしい」(p.143)。
「仮に数キロメートル程度の生態系の単位があるとすると、その境界とはなんであろうか。そうした境界がなぜ崩れないのか。それともたえず崩れながら、再建されるのか。そもそも生きものの単位を種とか個体と考えていいのだろうか。ある生態的な単位に含まれる全種の全個体が、なんらかの構造を全体として組み立てている。そう考えたほうが『生態的』ではないだろうか。比喩としていうのは簡単だが、それを実際にモデルとして組み立てるのは、容易ではないはずである。因果なことに、そういう厄介なことを考えるのが、私の趣味なのである」(p.145)。
「やりたいことを、やればいいじゃないか。そういうと、あなたはできるからいいですよと言い返される。できるもできないも、やらなきゃ、なにもできないのである。あらかじめ自分にはできないと、どうして思うのか。それがわからない」(p.156)。
「だから意地悪く言うなら、痛いとか苦しいとか、そういう症状が出ればシメたものである。やっと医者の言うことを聞く気になる。ただし、そのときは手遅れかもしれない。それが環境問題なのである」(p.167)。
スタニスワフ・レム著『泰平ヨンの未来学会議』 ― 2020年07月13日 22:13
16年 7月21日読了。
コスタリカで開かれた世界未来学会議に出席した泰平ヨンはテロに巻き込まれ、鎮圧のために投下された幻覚薬物爆弾に依り、ユートピアともディストピアとも思える奇妙な未来世界に迷い込む。サイケデリック(死語)ナンセンス。目茶苦茶な幻覚イメージと言葉遊びが面白い。翻訳は大変だったであろうが。
コスタリカで開かれた世界未来学会議に出席した泰平ヨンはテロに巻き込まれ、鎮圧のために投下された幻覚薬物爆弾に依り、ユートピアともディストピアとも思える奇妙な未来世界に迷い込む。サイケデリック(死語)ナンセンス。目茶苦茶な幻覚イメージと言葉遊びが面白い。翻訳は大変だったであろうが。
ジョルジュ・ペレック著『給料を上げてもらうために上司に近づく技術と方法』 ― 2020年07月14日 22:44
16年 7月21日読了。
枝分かれが多く再帰もあるフローチャートを一次元の小説或いは指南書として「翻訳」するという実験的試み。タイトルからも判るように、元と成ったフローチャート自体がジョーク的な物で、本書も内容は指南書のパロディ的なナンセンスである。繰り返しのギャグが楽しい。
読みにくくするためにわざわざ句読点が省かれているが、どんな効果があるのか良く判らない。翻訳が素晴らしい。
honto という書籍の通販サイトに投稿された感想が面白かった。「迷路で迷わないように、ずっと左手で壁を触りながら進むような歩み。それはもう迷っているのと区別がつかないのではないか」。
枝分かれが多く再帰もあるフローチャートを一次元の小説或いは指南書として「翻訳」するという実験的試み。タイトルからも判るように、元と成ったフローチャート自体がジョーク的な物で、本書も内容は指南書のパロディ的なナンセンスである。繰り返しのギャグが楽しい。
読みにくくするためにわざわざ句読点が省かれているが、どんな効果があるのか良く判らない。翻訳が素晴らしい。
honto という書籍の通販サイトに投稿された感想が面白かった。「迷路で迷わないように、ずっと左手で壁を触りながら進むような歩み。それはもう迷っているのと区別がつかないのではないか」。
スティーヴン・ミルハウザー著『ある夢想者の肖像』 ― 2020年07月15日 21:48
16年 7月25日読了。
少年期から思春期へ移る時期を描く。題名通り、主人公は様々な夢想をするが、現実と夢想の境界が曖昧な文章が面白い。諄く繰り返す文章は効果が在ったりなかったり。全体としては退屈。
非常に屈折した性格の主人公には共感できる部分も多いが、子供なのに酷く退屈して落ち着かず、同時に酷く疲れている処などは、感情移入しにくい。同じ作者の『エドウィン・マルハウス』もそうだったが、子供達が死の雰囲気に包まれている。舞台は五十年代のアメリカと思われ、世代的な物とは考えにくいから、著者に独自の物であろう。暗さと滑稽さが混じり合わないまま放り出されている。俺には合わないけど、こういうの好きな人は居るだろうなと思う。
少年期から思春期へ移る時期を描く。題名通り、主人公は様々な夢想をするが、現実と夢想の境界が曖昧な文章が面白い。諄く繰り返す文章は効果が在ったりなかったり。全体としては退屈。
非常に屈折した性格の主人公には共感できる部分も多いが、子供なのに酷く退屈して落ち着かず、同時に酷く疲れている処などは、感情移入しにくい。同じ作者の『エドウィン・マルハウス』もそうだったが、子供達が死の雰囲気に包まれている。舞台は五十年代のアメリカと思われ、世代的な物とは考えにくいから、著者に独自の物であろう。暗さと滑稽さが混じり合わないまま放り出されている。俺には合わないけど、こういうの好きな人は居るだろうなと思う。
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