J.D.サリンジャー著『ナイン・ストーリーズ』 ― 2025年02月16日 22:50
短編集。超有名作品だが、不勉強なことに初読。巻頭の「バナナフィッシュ日和」と巻末の「テディ」の結末が衝撃的。ある程度予測可能で「来るぞ来るぞ」と思っているとやっぱり来る。予想していたのにびっくりする。ヒチコックの手法である。
その他の作品ではそれほどの衝撃的結末はないが、日常の中に微妙な嫌な緊張感が生じているのが読みどころの一つである。特に、悪気はないが無神経で、相手は聞きたがっていないのに、ほとんど無理に話を聞かせる人物が読者を苛立たしくも滑稽な気分にさせる。
「可憐なる口もと 緑なる君が瞳」では、ある男が真夜中に友人に電話をかけてきて、何度も「起こしちゃったかい?」と訊くのだが、電話を切ることなく結論の出ない愚痴をくどくどと話し続ける。「電話切っちゃってくれよ」とも言うが、相手が切らないことは判っている。相手の優しさに甘えているのだが、それにも無自覚である。
ああ、そう言えば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も読んでない。
その他の作品ではそれほどの衝撃的結末はないが、日常の中に微妙な嫌な緊張感が生じているのが読みどころの一つである。特に、悪気はないが無神経で、相手は聞きたがっていないのに、ほとんど無理に話を聞かせる人物が読者を苛立たしくも滑稽な気分にさせる。
「可憐なる口もと 緑なる君が瞳」では、ある男が真夜中に友人に電話をかけてきて、何度も「起こしちゃったかい?」と訊くのだが、電話を切ることなく結論の出ない愚痴をくどくどと話し続ける。「電話切っちゃってくれよ」とも言うが、相手が切らないことは判っている。相手の優しさに甘えているのだが、それにも無自覚である。
ああ、そう言えば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も読んでない。
野崎まど著『小説』 ― 2025年02月22日 22:31
短めの長編。学校にも家庭にもなじめない少年の内海集司は、小学六年生の時、同級生の外崎真に小説の面白さを教える。二人は学校の近くの通称「モジャ屋敷」が小説家の家らしいと知って忍び込み、「髭先生」に出会う。もじゃ屋敷の書庫にある本を読むため、二人は毎日通うようになる。小説に夢中になったまま二人は大人になり、小説のための時間を最大化するため、定職には就かずアルバイト生活をしていた。二人が三十歳になるころ、外崎は小説の新人賞を取るが、その直後に行方を眩ます。内海は捜索を開始する。
子供時代の内海集司の行動と心理が活き活きと描かれていて素晴らしい。豊富な読書量ゆえの歳不相応な知識を持ちながら、肝心なところで子供らしく考えが足らない。
「正直に言えば内海集司は何も考えていなかった。普段ならば知識と常識を持ち合わせた内海が考えなしの外崎をフォローするという役割分担なのだが、この日に限っては二人とも浮足立っていて何の目論見もないまま他人の住宅の庭に不法侵入を果たしてしまっていた。ここからどうしたらいいのか、そもそも入り込んで何がしたいのかすらわからない。小説家という言葉は十二歳の二人の心をそれほどまでに波立たせていた」(p.21)。
ごく初めの方から、ファンタジーの気配は微かにあるのだが、三分の二を過ぎるあたりまではほとんど神秘的なことは起こらない。そして終盤になって突然内海集司は異世界へとやってくる。ウィリアム・バトラー・イェイツの描いた妖精の国である。終盤になってからSFやファンタジーに展開するのは半村良のスタイルである。
この作品では、全体を通してある世界観が示される。宇宙には「エネルギー→物質→星→生命→人間」という、エントロピー増大とは逆の流れがあり、小説こそはその流れの先にあるものだ、という世界観である。大変におもしくはあるのだが、腑に落ちる感じはない。論理、というほど緻密なものではないのだが、話の筋に破綻はない。しかしそこには、意識的か無意識的か判らぬが、小説家独特の「小説至上主義」が入り込んでいないか。傲慢と言って強すぎれば、ちょっと「身びいき」があるような気がする。そのあたり、思想的に深めた次作を期待。
子供時代の内海集司の行動と心理が活き活きと描かれていて素晴らしい。豊富な読書量ゆえの歳不相応な知識を持ちながら、肝心なところで子供らしく考えが足らない。
「正直に言えば内海集司は何も考えていなかった。普段ならば知識と常識を持ち合わせた内海が考えなしの外崎をフォローするという役割分担なのだが、この日に限っては二人とも浮足立っていて何の目論見もないまま他人の住宅の庭に不法侵入を果たしてしまっていた。ここからどうしたらいいのか、そもそも入り込んで何がしたいのかすらわからない。小説家という言葉は十二歳の二人の心をそれほどまでに波立たせていた」(p.21)。
ごく初めの方から、ファンタジーの気配は微かにあるのだが、三分の二を過ぎるあたりまではほとんど神秘的なことは起こらない。そして終盤になって突然内海集司は異世界へとやってくる。ウィリアム・バトラー・イェイツの描いた妖精の国である。終盤になってからSFやファンタジーに展開するのは半村良のスタイルである。
この作品では、全体を通してある世界観が示される。宇宙には「エネルギー→物質→星→生命→人間」という、エントロピー増大とは逆の流れがあり、小説こそはその流れの先にあるものだ、という世界観である。大変におもしくはあるのだが、腑に落ちる感じはない。論理、というほど緻密なものではないのだが、話の筋に破綻はない。しかしそこには、意識的か無意識的か判らぬが、小説家独特の「小説至上主義」が入り込んでいないか。傲慢と言って強すぎれば、ちょっと「身びいき」があるような気がする。そのあたり、思想的に深めた次作を期待。
農文協編『農家が教える耕さない農業 草・ミミズ・微生物が土を育てる』 ― 2025年02月23日 23:22
不耕起有機農法の紹介、解説書。実践者の経験が多く述べられている。本書では特に「カバークロップ(被覆作物)」によって、表土を覆ってマルチとし、そのまま腐食して土壌改良にもなるという方法に紙数を割いている。こういう、さかのぼれば日本の「自然農法」につながる農法は、しばしば実践を離れて過剰に思想的、宗教的になることがあるので、ちょっと繭に唾をつけながら読んだが、案外実践的、客観的な内容だった。
むしろ、教条主義的なのは、いつものことだが役人である。小笠原に住む高齢女性は有機マルチとして木材チップを畑に敷き詰めてみた。
「小笠原亜熱帯農業センターからは、病気が出るのでそういうことはしないようにと厳しく注意されました。チップから出る物質が植物を枯らすとも。木材チップは20年間使っていますが、そんなことはいっさいありません。なんの根拠があってそんなことを謂うのかと聞くと、40年前の本に書いてあるとのこと。自分で実験もせず、昔の資料を信じている頭の固い研究員からは、新しい最先端の農法は生まれません」(p.46)。
不耕起有機農法は増収を目的としたものではないが、収量が二から三倍になった作物もあるという。しかし、最大の効果は手間が減り、それに伴って燃料代、肥料代、農薬代が減ること、そして干ばつ、猛暑、豪雨などの異常気象に耐性ができることである。土壌改良によって保水と水捌けという相反しそうな性質を両立させていることと、生物多様性が増すことによってダメージがあってもどこかで吸収してしまう柔軟性が生まれているようである。
むしろ、教条主義的なのは、いつものことだが役人である。小笠原に住む高齢女性は有機マルチとして木材チップを畑に敷き詰めてみた。
「小笠原亜熱帯農業センターからは、病気が出るのでそういうことはしないようにと厳しく注意されました。チップから出る物質が植物を枯らすとも。木材チップは20年間使っていますが、そんなことはいっさいありません。なんの根拠があってそんなことを謂うのかと聞くと、40年前の本に書いてあるとのこと。自分で実験もせず、昔の資料を信じている頭の固い研究員からは、新しい最先端の農法は生まれません」(p.46)。
不耕起有機農法は増収を目的としたものではないが、収量が二から三倍になった作物もあるという。しかし、最大の効果は手間が減り、それに伴って燃料代、肥料代、農薬代が減ること、そして干ばつ、猛暑、豪雨などの異常気象に耐性ができることである。土壌改良によって保水と水捌けという相反しそうな性質を両立させていることと、生物多様性が増すことによってダメージがあってもどこかで吸収してしまう柔軟性が生まれているようである。
中村桂子著『今 地球は?人類は?科学は? 生命誌研究者、半世紀の本の旅』 ― 2025年02月27日 00:08
書評集。評者である中村桂子は「特別のイデオロギーも宗教も持っておらず、正義を振りかざして世直しをしよう、などと考えてもいない」(p.11)のだが、我々と同様、今日の環境問題、格差などの社会問題、そして戦争などに「毎日が落ち着かない」(p.11)。「そこで書評を集めて、少し前を振り返りながら、人類の、そして地球のこれからを考えたいと思った」(p.17)。書評は「科学とは、科学者とは」などの九つの主題に分けられている。
「宇宙は単純であると信じる彼(アインシュタイン)は、統一理論を求めた。宇宙の秩序、単純で美しい法則を知ると人は世俗的苦悩から解放され、おのずから宇宙法則にのっとった生き方を選ぶというのだ。これが宇宙的人間であり、この行動原理は科学的事実なので民族を超えて万人に受け入れられるはずだという考えだ」(p29『アインシュタイン、神を語る----宇宙・科学・宗教・平和』)。
「善と悪については、予知不可能性から見て、悪い科学を抑え、良い科学だけを進めることはできないという答えになる。ゼウスは人間に終わりのない探究という罰を科したのだと言い、悪を避けさせ得るのは科学者の誠実、つまり真実のすべてを語ること(専門外の人にも)だけだと指摘する」(p.40『ハエ、マウス、ヒト----生物学者による未来への証言』)。
「非線形科学の基本は崩壊と創造だというのだから、生きものとつながりそうだ。物理学的に言うなら崩壊は「エネルギーの散逸」であり、想像は「自己組織化」だ。自然はダイナミックにこれをくり返す結果、先述したカオス、ゆらぎ、同期などが見えるのである」(p.196『非線形科学』)。
全部で五十タイトル以上の本が紹介されている。全部読みたい。
「宇宙は単純であると信じる彼(アインシュタイン)は、統一理論を求めた。宇宙の秩序、単純で美しい法則を知ると人は世俗的苦悩から解放され、おのずから宇宙法則にのっとった生き方を選ぶというのだ。これが宇宙的人間であり、この行動原理は科学的事実なので民族を超えて万人に受け入れられるはずだという考えだ」(p29『アインシュタイン、神を語る----宇宙・科学・宗教・平和』)。
「善と悪については、予知不可能性から見て、悪い科学を抑え、良い科学だけを進めることはできないという答えになる。ゼウスは人間に終わりのない探究という罰を科したのだと言い、悪を避けさせ得るのは科学者の誠実、つまり真実のすべてを語ること(専門外の人にも)だけだと指摘する」(p.40『ハエ、マウス、ヒト----生物学者による未来への証言』)。
「非線形科学の基本は崩壊と創造だというのだから、生きものとつながりそうだ。物理学的に言うなら崩壊は「エネルギーの散逸」であり、想像は「自己組織化」だ。自然はダイナミックにこれをくり返す結果、先述したカオス、ゆらぎ、同期などが見えるのである」(p.196『非線形科学』)。
全部で五十タイトル以上の本が紹介されている。全部読みたい。
養老孟司、中川恵一著『養老先生、がんになる』 ― 2025年02月27日 23:15
がんになった養老孟司の治療の記録。がんの診断から治療の過程が具体的に述べられていて面白い。
蛾の採集のためにラオスに住んでいる小林真大の話。養老「小林君によると、時折昼間山の中で、虫を探すときに体に力が入っていると見えないが、力が抜けていると見えるようになり、完全に抜けると虫の方から寄ってくるくらいなると言うのです」(p.118)。
養老「安楽死というと、患者さんのことばかり報道されるけど、それを実行する医者の負担のことはあまり話題になりません。やるほうの気持ちを考えたら、大変なことです」(p.196)。
養老「家族を含め、多くの人にとっては迷惑な話かもしれないと思いながら、私はせっせと虫の標本を作る。子どもの時からほぼ八十年続けている作業で、やっている間はいわば瞑想状態になる。アメリカでマインドフルネスなどと称して流行しているのは、このことじゃないかと思ったりする」(p.204)。
養老「中川先生は私の意見が変わってきたのではないかと言われる。そうかもしれないが、個々の問題に関する意見が変わったというより、本人からすると、年齢で我が弱くなったのだという気がする。これは言い方によっては投げやりな感じになる。どうでもよくなった。そう言っていると聞こえるかもしれないからである。この辺りが社会と相対するときの私の場合の難しさである。自分の執着を絶てば、自分の心は楽になるが、私のために一所懸命何かしてくれている相手が、「二階に上がって梯子を外された」感を抱くかもしれない。死はともかく、生きるとは厄介なことなのである」(p.205)。
蛾の採集のためにラオスに住んでいる小林真大の話。養老「小林君によると、時折昼間山の中で、虫を探すときに体に力が入っていると見えないが、力が抜けていると見えるようになり、完全に抜けると虫の方から寄ってくるくらいなると言うのです」(p.118)。
養老「安楽死というと、患者さんのことばかり報道されるけど、それを実行する医者の負担のことはあまり話題になりません。やるほうの気持ちを考えたら、大変なことです」(p.196)。
養老「家族を含め、多くの人にとっては迷惑な話かもしれないと思いながら、私はせっせと虫の標本を作る。子どもの時からほぼ八十年続けている作業で、やっている間はいわば瞑想状態になる。アメリカでマインドフルネスなどと称して流行しているのは、このことじゃないかと思ったりする」(p.204)。
養老「中川先生は私の意見が変わってきたのではないかと言われる。そうかもしれないが、個々の問題に関する意見が変わったというより、本人からすると、年齢で我が弱くなったのだという気がする。これは言い方によっては投げやりな感じになる。どうでもよくなった。そう言っていると聞こえるかもしれないからである。この辺りが社会と相対するときの私の場合の難しさである。自分の執着を絶てば、自分の心は楽になるが、私のために一所懸命何かしてくれている相手が、「二階に上がって梯子を外された」感を抱くかもしれない。死はともかく、生きるとは厄介なことなのである」(p.205)。
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