野崎まど著『小説』 ― 2025年02月22日 22:31
短めの長編。学校にも家庭にもなじめない少年の内海集司は、小学六年生の時、同級生の外崎真に小説の面白さを教える。二人は学校の近くの通称「モジャ屋敷」が小説家の家らしいと知って忍び込み、「髭先生」に出会う。もじゃ屋敷の書庫にある本を読むため、二人は毎日通うようになる。小説に夢中になったまま二人は大人になり、小説のための時間を最大化するため、定職には就かずアルバイト生活をしていた。二人が三十歳になるころ、外崎は小説の新人賞を取るが、その直後に行方を眩ます。内海は捜索を開始する。
子供時代の内海集司の行動と心理が活き活きと描かれていて素晴らしい。豊富な読書量ゆえの歳不相応な知識を持ちながら、肝心なところで子供らしく考えが足らない。
「正直に言えば内海集司は何も考えていなかった。普段ならば知識と常識を持ち合わせた内海が考えなしの外崎をフォローするという役割分担なのだが、この日に限っては二人とも浮足立っていて何の目論見もないまま他人の住宅の庭に不法侵入を果たしてしまっていた。ここからどうしたらいいのか、そもそも入り込んで何がしたいのかすらわからない。小説家という言葉は十二歳の二人の心をそれほどまでに波立たせていた」(p.21)。
ごく初めの方から、ファンタジーの気配は微かにあるのだが、三分の二を過ぎるあたりまではほとんど神秘的なことは起こらない。そして終盤になって突然内海集司は異世界へとやってくる。ウィリアム・バトラー・イェイツの描いた妖精の国である。終盤になってからSFやファンタジーに展開するのは半村良のスタイルである。
この作品では、全体を通してある世界観が示される。宇宙には「エネルギー→物質→星→生命→人間」という、エントロピー増大とは逆の流れがあり、小説こそはその流れの先にあるものだ、という世界観である。大変におもしくはあるのだが、腑に落ちる感じはない。論理、というほど緻密なものではないのだが、話の筋に破綻はない。しかしそこには、意識的か無意識的か判らぬが、小説家独特の「小説至上主義」が入り込んでいないか。傲慢と言って強すぎれば、ちょっと「身びいき」があるような気がする。そのあたり、思想的に深めた次作を期待。
子供時代の内海集司の行動と心理が活き活きと描かれていて素晴らしい。豊富な読書量ゆえの歳不相応な知識を持ちながら、肝心なところで子供らしく考えが足らない。
「正直に言えば内海集司は何も考えていなかった。普段ならば知識と常識を持ち合わせた内海が考えなしの外崎をフォローするという役割分担なのだが、この日に限っては二人とも浮足立っていて何の目論見もないまま他人の住宅の庭に不法侵入を果たしてしまっていた。ここからどうしたらいいのか、そもそも入り込んで何がしたいのかすらわからない。小説家という言葉は十二歳の二人の心をそれほどまでに波立たせていた」(p.21)。
ごく初めの方から、ファンタジーの気配は微かにあるのだが、三分の二を過ぎるあたりまではほとんど神秘的なことは起こらない。そして終盤になって突然内海集司は異世界へとやってくる。ウィリアム・バトラー・イェイツの描いた妖精の国である。終盤になってからSFやファンタジーに展開するのは半村良のスタイルである。
この作品では、全体を通してある世界観が示される。宇宙には「エネルギー→物質→星→生命→人間」という、エントロピー増大とは逆の流れがあり、小説こそはその流れの先にあるものだ、という世界観である。大変におもしくはあるのだが、腑に落ちる感じはない。論理、というほど緻密なものではないのだが、話の筋に破綻はない。しかしそこには、意識的か無意識的か判らぬが、小説家独特の「小説至上主義」が入り込んでいないか。傲慢と言って強すぎれば、ちょっと「身びいき」があるような気がする。そのあたり、思想的に深めた次作を期待。
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