奥泉光著『虚構まみれ』2019年07月04日 21:54

14年 7月25日読了。
 エッセイ集。一九九八年出版の本だが、基本的な主張は『文芸漫談』と同じである。すなわち、批評的視点を持つ事、その視点の二重化に依って物語に「外部」を呼び込む事。口承文芸的物語-共同体的な循環-繰り返す事-更新・安定のシステム、に対して、文字として書かれた小説-歴史性-一階限りの出来事-変更を加えながら反復するシステムの重要性である。伝統、様式に対して内部から揺さぶりをかける事。
 何故そのように変化していかなければならないのかという問いに対して奥泉は「自由のため」と応える。それでは何故それほど自由が重要なのか、と根拠を問い続けていけばどこまでも無限に後退していく事に成り、どこかで意を決して「無根拠の選択」をしなければならない訳だが、俺には「進化」が根拠ではないかと思われる。
 話は単に「文学の進化」というような事ではない。現在の進化論の主流はネオダーウィニズム、すなわち多様化と自然選択が進化を駆動するという説だが、長い間生物はこの「多様化」を突然変異、すなわち遺伝子の変化に依って実現して来た。それが、やがて鳥類の刷り込み現象のように、多様化の一部を神経系が担うように成り、高等哺乳類では文化と呼べるような物も現れて来る。つまり、文化とは進化における多様化の新しいシステムではないか。
 そこに、文学のみならずあらゆる文化が変化を続け多様化しなければならない理由がある。人間の身体性や「人間である事」まで様式・制約と捉えそれを乗り越えていこうとすれば、そのまま人類進化テーマのSFに成るが、俺は半ば本気で、文化の多様化は四十億年に及ぶ生物進化の慣性、言わば進化圧に依る物ではないか、と考えている。
 進化というと、弱肉強食で勝者のみが生き延びる、という印象もあるが、現実には原初的な細菌も現在まで生き延びているし、オケラだってミミズだってアメンボだってみんなみんな生きている。種という単位で見れば、数限りない種が滅んで来たが、古い生態系システムが全否定される事はなく、進化は何かが付け加わる形で進んで来たし、そうでなければ多様化は進まない。文化もそのようにあるべきであろう。

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