カスガ著『コミケへの聖歌』 ― 2026年03月30日 21:26
長編。舞台は文明崩壊後の日本。人々は森の中に集落を作り、中世のような厳格に身分の分かれた封建的社会で暮らしていた。平均寿命は五十歳代で、女たちの多くは十代のうちに子供を産む。主人公は四人の少女、といっても、遠くない将来に結婚し子供を産むであろう、つかの間の少女時代を生きている女性たちである。彼女たちは廃墟から掘り出された漫画に熱中し、漫画同好会を作って自分たちでも漫画を描いている。彼女たちはそれぞれに身分制社会に疑問や憤りを持っているが、社会を変えるような力はなく、閉塞感と無力感の中で生きていた。ある時、彼女たちの一人が「今では「廃京」となっている東京へ、漫画のユートピアである「コミケ」を探しに行こう」と言い出す。
あるのかどうかも判らないどころか、存在しない可能性の方が高そうなコミケを探しに行く、という設定が良い。冒険的であり、滑稽でもあり、そして物悲しい。
あるのかどうかも判らないどころか、存在しない可能性の方が高そうなコミケを探しに行く、という設定が良い。冒険的であり、滑稽でもあり、そして物悲しい。
マーガレット・アトウッド著『ダンシング・ガールズ』 ― 2026年03月25日 22:17
著者の初期短編集だが、後の『侍女の物語』に通じるフェミニズムやマイノリティの主題が見える。全体に、主人公が普段無意識に目を逸らせている現実を、強引にというか否応なくというか、直視させられる、というような内容が多い。神秘的なことは何も起こらないが、カフカ的不条理間、閉塞感、無力感を感じさせる。
「キッチン・ドア」の主人公は田舎町に住む主婦。彼女はごく希薄な根拠から破滅を予感しており、そこに至る過程を詳細に想像している。それは、どことどこの国が戦争をして、戦況がどのように展開するか、というような大局的な話ではない。彼女の生活がどのように変化していくかが事細かに思い描かれる。まず報道が変化する。悪いニュースが流れなくなり、やがて報道自体が少なくなり、ラジオはやたらにクラシック音楽を流したりし始める。政府による報道管制が引かれるのだ。そして物流が滞り始める。やがて彼方で煙が立ち昇る。幾筋も。根拠がはっきりしないので妄想と呼ぶべきものなのだが、なぜか強い現実感がある。
「キッチン・ドア」の主人公は田舎町に住む主婦。彼女はごく希薄な根拠から破滅を予感しており、そこに至る過程を詳細に想像している。それは、どことどこの国が戦争をして、戦況がどのように展開するか、というような大局的な話ではない。彼女の生活がどのように変化していくかが事細かに思い描かれる。まず報道が変化する。悪いニュースが流れなくなり、やがて報道自体が少なくなり、ラジオはやたらにクラシック音楽を流したりし始める。政府による報道管制が引かれるのだ。そして物流が滞り始める。やがて彼方で煙が立ち昇る。幾筋も。根拠がはっきりしないので妄想と呼ぶべきものなのだが、なぜか強い現実感がある。
テリー・イーグルトン著『文学とは何か』上下 ― 2026年03月20日 22:54
邦題は「文学とは何か」となっているが、解説されているのは「文学」ではなく「文学理論」あるいは「文学批評」である。「英語英文学(イングリッシュ)批評」を中心に、近代文学批評を、批判的に解説していく。特に、文学理論はイデオロギーそのものではないにしても、イデオロギーと深くかかわりあっており、政治性を持たない、純粋な立場や公正無私で無垢な文学理論というものを認めず、そのように主張し、一見そのように見える文学理論も、広い意味では必ず政治性を帯びているという。
ここでいうイデオロギーとか政治性とかいうのは、社会や生活、人々の人間観や歴史観を望む方向に誘導したり圧力をかけたりすること、つまり権力の構造のことである。
文学理論はイデオロギーから逃れることは不可能なのだから、批評家はそれに意識的になれ、というのが本書の形式的な主張である。「形式的な」というのは、理屈の上ではこの「広い意味でのイデオロギー」は、どのような立場でもあってよいし、著者もそのように言っているのだが、実際には著者の立場は「マルクス主義批評とフェミニズム批評、ポストコロニアル批評などが融合したカルチュラル・スタディーズ」というようなところにあり、意識的無意識的にそちらに寄って行っているからである。
本書を読んで俺が考えたことは、このイデオロギーに文学自体を代入することもできるな、ということである。こういう「芸術のための芸術」みたいな話は、それこそ外部性を失って閉じていきそうになることもあるが、著者の説に従えば、文学理論はあらゆる外部を巻き込んでいくことができるはずである。
「文学理論を解説する際に、「中立的(ニュートラル)」で、価値観に左右されない語り方などないというのが持論だから、私は終始一貫して自分に関心のある主張について論じている」(上 p.21)。
「文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとはたんなる個人的嗜好のことではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し、権力を維持していくのに役立つもろもろの前提のことを指す」(上 p.58)。
「ガダマーにとって、過去の作品の解釈とは、過去と現在との対話によって構成される。過去の作品と出会うとき、私たちは、その作品が発する聞き慣れぬ声に、まず賢明なるハイデガー的虚心を持って耳を傾ける。しかし、逆に考えれば、作品が私たちに「語りかける」ものは、私たちの時代の観点からその作品にむけて投げかける問いの種類によっても左右されるだろう。あるいはまた、その作品自身が一つの「解答」となるような「問い」をうまく再構成する私たちの能力に、すべてがかかっているとも言える。そもそも作品というのは、作品が属している時代との対話の産物でもあるからだ。了解とはすべて生産的なものである。それはつねに「べつのかたちの了解」であり、テクストの中に潜んでいる新たな潜在的意味の実現であり、テクストの差異化である」(上 p.175)。
「受容理論は、文学における読者の役割を究明する。そしてこの点でも、かなり新しい展開であると言える。その新しさは、近代の文学理論を大雑把に三段階に区切ってみればよくわかる。最初に、作者に対する関心(ロマン主義および十九世紀)。次に、テクストのみに限定された関心(〈新批評〉)。そして最後に、ここ数年顕著になった、読者に対する関心の移行」(上 p.182)。
「めったに気づくことはないにせよ、私たちはしょっちゅうテクストの意味について仮説をあれこれと立てているのだ。読者は、隠されたつながりを見出し、空白部を埋め、憶測を立て、推理を確認しながら進む、そしてこれは、読者が、広くは世界に関する暗黙の知識に、狭くは文学上の約束事に関する暗黙の知識に、依拠することを意味する。テクストとは、読者に言語の断片を意味あるものに構築するよう誘う、一連の「合図(キュー)」以外のなにものでもない。受容理論の用語を使えば、読者は文学作品を「具体化(コンクレタイズ)する」」(上 p.186)。
「もし私たちが、読書のストラテジーによってテクストを修正するのだとしたら、テクストのほうも同時に私たちを修正する」(上 p.192)。
「伝統的な批評は、文学作品を作家の精神がのぞける窓に還元してしまうことが多かったとすれば、構造主義はどうやら、作品を普遍的精神のうかがえる窓に還元してしまったようだ」(上 p.265)。
「最初にあった意味は、後続する意味によって修正を受ける。しかも、一個の文の場合にはこのプロセスに終わりがあるものの、言語そのものの場合には、このプロセスに終わりはない」(下 p.10)。
「容認可能なものと容認不可能なもの、自己と自己にあらざるもの、真実と虚偽、意味と無意味、理性と狂気、中心と周辺、表層と深層、この両者の間にゆるぎない境界線を引くことをイデオロギーは好む」(下 p.21)。
「批評にとってもっとも関心をそそられるテクストとは、読みうるテクストではなく、「書きうる scripteble」テクスト----みずからテクストを造形し、それをさまざまに異なる言説へと書き換え、作品そのものにさからいつつ、準恣意的な意味の戯れを産出するように批評家をうながすテクスト----である。このとき、読者あるいは批評家は、消費者の役割から生産者の役割へと移行する」(下 p.30)。
「あらゆる文学テクストは、他の文学テクストから織りあげられる。これは文学テクストには他のテクストの「影響」の痕跡があるという伝統的な意味ではなく、あらゆる語、あらゆる語句、あらゆる部分が、その作品に先行しその作品をとりまく他のエクリチュールの再加工にすぎぬという、もっとラディカルな意味からそう言えるのだ。文学的な「オリジナリティ」なるものは存在しない。「最初の」文学作品なるものは存在しない。あらゆる文学は、「間(インター)テクスト的」なのだ」(下 p.31)。
「ポスト構造主義にあっては、「批評」と「創作」との間に明確な区分はない」(下 p.35)。
「しかし、ラカンにとっては、私たちの言説はある意味で、すべて言い間違いである」(下 p.99)。
「あらゆる著述(ライティング)のつねとして、文学作品の洞察(インサイト)は、それがかかえる死角(ブラインドネス)と深い関係にある。作品が語っていないこと、および作品がいかにしてそれを語らないでいるかということは、作品が分節化していることに劣らず重要だとも言える。作品に不在(アブセント)であるもの、周辺的(マージナル)で、両面価値的(アンビバレント)だと思われるものが、作品の意味を理解する鍵を提供するかもしれないのだ」(下 p.120)。
「したがって私たちはこう結論せざるをえない。本書は、文学理論への手引書(イントロダクション)ではなくて文学理路への死亡記事(オビチュアリー)であり、本書のなかで多くの人に理解してもらえるよう苦心惨憺して掘り起こしてきた文学理論を、いま私たちは埋葬して終わらんとしている、と」(下 p.177)。
「知は、文化的コンテクストと関係している。そのため、世界を「あるがまま」に知ると主張することは、単なる妄想にすぎない----私たちの理解は、どうしても、部分的で偏向的な解釈によりかかるほかないからだが、それ以上に、解釈以前の世界そのものが存在しないからでもある。真理は、解釈の産物であり、事実はディスクールによって構築されたものであり、客観性は、眉唾物の解釈がいつしか大手をふってまかりとおるようになったものであり、人間主体は、彼もしくは彼女が考察する現実と同様、虚構にすぎない。人間主体とは、拡散的で自己分裂的で、そこにはいかなる固定した本性なり本質もない……。こうしたことすべてをひっくるめて考えると、ポストモダン性をめぐる議論とは、フリードリッヒ・ニーチェの哲学に関する詳しい脚注の一種である。ちなみにニーチェは、十九世紀ヨーロッパにおいて、いま述べたような主張のそのほとんどすべてを先取りしていたのである」(下 p.234)。
ここでいうイデオロギーとか政治性とかいうのは、社会や生活、人々の人間観や歴史観を望む方向に誘導したり圧力をかけたりすること、つまり権力の構造のことである。
文学理論はイデオロギーから逃れることは不可能なのだから、批評家はそれに意識的になれ、というのが本書の形式的な主張である。「形式的な」というのは、理屈の上ではこの「広い意味でのイデオロギー」は、どのような立場でもあってよいし、著者もそのように言っているのだが、実際には著者の立場は「マルクス主義批評とフェミニズム批評、ポストコロニアル批評などが融合したカルチュラル・スタディーズ」というようなところにあり、意識的無意識的にそちらに寄って行っているからである。
本書を読んで俺が考えたことは、このイデオロギーに文学自体を代入することもできるな、ということである。こういう「芸術のための芸術」みたいな話は、それこそ外部性を失って閉じていきそうになることもあるが、著者の説に従えば、文学理論はあらゆる外部を巻き込んでいくことができるはずである。
「文学理論を解説する際に、「中立的(ニュートラル)」で、価値観に左右されない語り方などないというのが持論だから、私は終始一貫して自分に関心のある主張について論じている」(上 p.21)。
「文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとはたんなる個人的嗜好のことではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し、権力を維持していくのに役立つもろもろの前提のことを指す」(上 p.58)。
「ガダマーにとって、過去の作品の解釈とは、過去と現在との対話によって構成される。過去の作品と出会うとき、私たちは、その作品が発する聞き慣れぬ声に、まず賢明なるハイデガー的虚心を持って耳を傾ける。しかし、逆に考えれば、作品が私たちに「語りかける」ものは、私たちの時代の観点からその作品にむけて投げかける問いの種類によっても左右されるだろう。あるいはまた、その作品自身が一つの「解答」となるような「問い」をうまく再構成する私たちの能力に、すべてがかかっているとも言える。そもそも作品というのは、作品が属している時代との対話の産物でもあるからだ。了解とはすべて生産的なものである。それはつねに「べつのかたちの了解」であり、テクストの中に潜んでいる新たな潜在的意味の実現であり、テクストの差異化である」(上 p.175)。
「受容理論は、文学における読者の役割を究明する。そしてこの点でも、かなり新しい展開であると言える。その新しさは、近代の文学理論を大雑把に三段階に区切ってみればよくわかる。最初に、作者に対する関心(ロマン主義および十九世紀)。次に、テクストのみに限定された関心(〈新批評〉)。そして最後に、ここ数年顕著になった、読者に対する関心の移行」(上 p.182)。
「めったに気づくことはないにせよ、私たちはしょっちゅうテクストの意味について仮説をあれこれと立てているのだ。読者は、隠されたつながりを見出し、空白部を埋め、憶測を立て、推理を確認しながら進む、そしてこれは、読者が、広くは世界に関する暗黙の知識に、狭くは文学上の約束事に関する暗黙の知識に、依拠することを意味する。テクストとは、読者に言語の断片を意味あるものに構築するよう誘う、一連の「合図(キュー)」以外のなにものでもない。受容理論の用語を使えば、読者は文学作品を「具体化(コンクレタイズ)する」」(上 p.186)。
「もし私たちが、読書のストラテジーによってテクストを修正するのだとしたら、テクストのほうも同時に私たちを修正する」(上 p.192)。
「伝統的な批評は、文学作品を作家の精神がのぞける窓に還元してしまうことが多かったとすれば、構造主義はどうやら、作品を普遍的精神のうかがえる窓に還元してしまったようだ」(上 p.265)。
「最初にあった意味は、後続する意味によって修正を受ける。しかも、一個の文の場合にはこのプロセスに終わりがあるものの、言語そのものの場合には、このプロセスに終わりはない」(下 p.10)。
「容認可能なものと容認不可能なもの、自己と自己にあらざるもの、真実と虚偽、意味と無意味、理性と狂気、中心と周辺、表層と深層、この両者の間にゆるぎない境界線を引くことをイデオロギーは好む」(下 p.21)。
「批評にとってもっとも関心をそそられるテクストとは、読みうるテクストではなく、「書きうる scripteble」テクスト----みずからテクストを造形し、それをさまざまに異なる言説へと書き換え、作品そのものにさからいつつ、準恣意的な意味の戯れを産出するように批評家をうながすテクスト----である。このとき、読者あるいは批評家は、消費者の役割から生産者の役割へと移行する」(下 p.30)。
「あらゆる文学テクストは、他の文学テクストから織りあげられる。これは文学テクストには他のテクストの「影響」の痕跡があるという伝統的な意味ではなく、あらゆる語、あらゆる語句、あらゆる部分が、その作品に先行しその作品をとりまく他のエクリチュールの再加工にすぎぬという、もっとラディカルな意味からそう言えるのだ。文学的な「オリジナリティ」なるものは存在しない。「最初の」文学作品なるものは存在しない。あらゆる文学は、「間(インター)テクスト的」なのだ」(下 p.31)。
「ポスト構造主義にあっては、「批評」と「創作」との間に明確な区分はない」(下 p.35)。
「しかし、ラカンにとっては、私たちの言説はある意味で、すべて言い間違いである」(下 p.99)。
「あらゆる著述(ライティング)のつねとして、文学作品の洞察(インサイト)は、それがかかえる死角(ブラインドネス)と深い関係にある。作品が語っていないこと、および作品がいかにしてそれを語らないでいるかということは、作品が分節化していることに劣らず重要だとも言える。作品に不在(アブセント)であるもの、周辺的(マージナル)で、両面価値的(アンビバレント)だと思われるものが、作品の意味を理解する鍵を提供するかもしれないのだ」(下 p.120)。
「したがって私たちはこう結論せざるをえない。本書は、文学理論への手引書(イントロダクション)ではなくて文学理路への死亡記事(オビチュアリー)であり、本書のなかで多くの人に理解してもらえるよう苦心惨憺して掘り起こしてきた文学理論を、いま私たちは埋葬して終わらんとしている、と」(下 p.177)。
「知は、文化的コンテクストと関係している。そのため、世界を「あるがまま」に知ると主張することは、単なる妄想にすぎない----私たちの理解は、どうしても、部分的で偏向的な解釈によりかかるほかないからだが、それ以上に、解釈以前の世界そのものが存在しないからでもある。真理は、解釈の産物であり、事実はディスクールによって構築されたものであり、客観性は、眉唾物の解釈がいつしか大手をふってまかりとおるようになったものであり、人間主体は、彼もしくは彼女が考察する現実と同様、虚構にすぎない。人間主体とは、拡散的で自己分裂的で、そこにはいかなる固定した本性なり本質もない……。こうしたことすべてをひっくるめて考えると、ポストモダン性をめぐる議論とは、フリードリッヒ・ニーチェの哲学に関する詳しい脚注の一種である。ちなみにニーチェは、十九世紀ヨーロッパにおいて、いま述べたような主張のそのほとんどすべてを先取りしていたのである」(下 p.234)。
上田早夕里著『成層圏の墓標』 ― 2026年03月08日 22:15
短編集。全体に、眉村卓のジュブナイルを連想させるような、清潔感の感じられる作品が多い。不思議なことに「異形コレクション」に収録されたホラー的な作品にもどことなく「健全さ」が感じられるのである。「健全とは何か」がよく判らなくなっているこの時代にどうしてそのようなことが可能なのか。誠実で公平、ということかもしれない。
そのことと無関係ではないと思うが、SFらしい異常な出来事や状況が描かれるが、ほとんどの作品で主人公となるのは、状況にかかわる重要な、あるいは特別な人物ではなく、状況に翻弄される名もなき人々である。
俺が一番気に入ったのは「車夫と三匹の妖狐」。明治から大正期の東京で、妖狐の娘たちを人力車に乗せて駆け巡った車夫の話である。妖狐に殺されたはずの車夫仲間とすれ違う場面が奇妙に迫力がある。
そのことと無関係ではないと思うが、SFらしい異常な出来事や状況が描かれるが、ほとんどの作品で主人公となるのは、状況にかかわる重要な、あるいは特別な人物ではなく、状況に翻弄される名もなき人々である。
俺が一番気に入ったのは「車夫と三匹の妖狐」。明治から大正期の東京で、妖狐の娘たちを人力車に乗せて駆け巡った車夫の話である。妖狐に殺されたはずの車夫仲間とすれ違う場面が奇妙に迫力がある。
犬怪寅日子著『羊式型人間模擬機』 ― 2026年03月02日 22:20
中編。第十二回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作品。人物の名前からすると日本のようだが、地域も時代もはっきりしない、広大な領地の大きな屋敷に住む一族の物語。一族の男子は死に際して羊に変身する。毛を刈る家畜の羊だ。そして一族の者はその羊の肉を食べる風習というか掟がある。解体作業を担うのは、世代を超えて一族に仕え続ける一体のアンドロイド。数世代にわたる一族の物語が、このアンドロイドの視点で語られる。アンドロイドには「不完全な感情」のようなものがあるが、自分でそれを持て余しているようである。山尾悠子を連想させる幻想小説であり、俺はガルシア・マルケスの『百年の孤独』をちょっと思い出した。
俺の最も好きなエピソードは「嫁取り」の話である。一族は外部から配偶者を迎えるにあたっては、婿ならば娘の父親が、嫁ならば息子の母親が自由に選ぶという決まりがある。一族の歴史においては、地図に矢を刺すなど乱暴な選び方をする者もあった。自らも義母に選ばれて嫁となった日向は、自分の金を盗んだ浮浪児の少女を息子の嫁にしようとする。日向と少女の間の緊張感が良い。やがて一族に嫁いだ少女が生む四人の子供たちもみな面白い個性を持っていて魅力的である。
選考では神林長平が強力に推したという。
俺の最も好きなエピソードは「嫁取り」の話である。一族は外部から配偶者を迎えるにあたっては、婿ならば娘の父親が、嫁ならば息子の母親が自由に選ぶという決まりがある。一族の歴史においては、地図に矢を刺すなど乱暴な選び方をする者もあった。自らも義母に選ばれて嫁となった日向は、自分の金を盗んだ浮浪児の少女を息子の嫁にしようとする。日向と少女の間の緊張感が良い。やがて一族に嫁いだ少女が生む四人の子供たちもみな面白い個性を持っていて魅力的である。
選考では神林長平が強力に推したという。
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