酉島伝法著『無常商店街』2026年02月12日 18:47

 連作短編三編収録。翻訳家の宮原は姉からの電話で「猫の世話をしてくれ」と留守番を頼まれ、見知らぬ街に滞在することになる。姉から近づくなと注意されていた商店街に迷い込んでしまった宮原は、抜け出せなくなる。三編とも、一見日常的な街から異様な世界に迷い込んでいく話である。まず、空間が歪んでいく。
 「左に進んでみると案の定一本道に繋がってほっとしたが、回転焼きの店は一考に現れない。おかしいな、と後ろに向けば二叉で、どちらの道の先にも二叉が見える」(p.25)。
 さらに「どこまで行っても見たことのない、それでいてどこにもあるような寂れた商店街の景色ばかりが続く。地図で見た無常商店街の広さを遥かに超えているとしか思えなかった。湾曲した道に差し掛かってカーブミラーが現れ、そこに自分の後ろ姿が映っているのが見えた」(p.26)。
 ついには空間が螺旋状に捻じれ、建物は融合し、店先に並ぶ商品も変容して何が売っているのかわからなくなる。変容は人間にも及び、捻じれた街を行き交う人々の姿も奇怪である。
 「顔面が一対の翼だけで羽ばたきながら歩いている人、膨張しすぎた頭部をさみ垂れ式に引きずって歩く人、烏賊の漏斗のごとき突起を八方に突き出してせわしなく呼吸しながらも行き苦しげな人、複数の顔の集合がざぬざぬと位置を変えながら五体を保っている人」(p.41)。
 現象には妙な理屈がついているが、宮原にも読者にも何のことやら全く判らない。「表相で何かを見て想起した過程が、こちらの相で視覚投影されたのでしょう。咬融域でノージェンス擦過が起きているときには、内面と同期しやすいですしね」(p.35)。どうやら宮原の姉が務めている研究所では、これらの現象研究しているらしかった。
 この後、宮原は異界の街の御神体にされてしまった姉を救い出すため、ある「踊り」の特訓を始める。全体にユーモラスな語り口なのだが、ただヘンテコな街をさまよう話ではなく、無理矢理エンターテインメント的な筋立てにしてあるところもなんだがおかしい。

小川哲著『言語化するための小説思考』2026年02月07日 20:53

 判型は完全に新書版で、内容もある種の研究解説なのだが、なぜか講談社現代新書のシリーズになっておらず、独立した単行本となっている。小説の書き方を考察したエッセイだが、これから小説を書こうとする人のための入門書というよりは、著者自身が小説を書く時の過程を分析したもの。
 著者は「小説はコミュニケーションである」と断言する。俺とはずいぶん小説観が違うな、と思う。読み進めていくと、言葉遣いが独特なだけで俺と似た部分も多いとわかる。「僕の考えでは、答えのある問いは「小説」ではない」(p.131)。この一文などは強く共感する。
 しかし、最後まで共感できない感じも残った。最大の違和感は、何と言うか「小説の人格性」への言及が全くないことである。小説の登場人物の人格性ではない。小説の人格性である。俺の考えでは、小説作品は作家とも読者とも異なる、ある種独立した人格のようなものを持っている。作者が決めるのでも読者が決めるのでもない、小説作品自身が独自に持っている「良さ」のようなもの。これは俺独自の言葉遣いなので伝わらないかもしれないが、優れた小説作品は「いのち」を持つ。
 「文章で何かを表現するとき、「順番」をどうするか決める必要がある。というか、僕は「順番」を決めること以上に重要な要素はない、と考えていたりもする。視点をどうするか、修飾語を増やすか、どういう比喩を使うか、一文の長さはどうするか----そういう点に頭を悩ます人は多いが、そもそも正しい「順番」で書くことができなければ意味がない。「情報の順番」は小説という空間の立ち上げ方を規定する。書き手が生み出した小説空間に、読み手をどのように招き入れるかを決める。そういう意味において非常に重要な要素なのだが、実際にはあまり考慮されていないような気もする」(p.48)。
 「「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか、と僕は考えていて、それを実践するために書いた文章なのだ」(p.50)。
 「とはいえ、「読みやすい」ことは「価値がある」ことと同義ではない」(p.50)。
 「そもそも文章は三次元の現実世界(と脳内の思弁)を一次元的なリニアな記号に置き換えたものであるので、情報の順番にはかならず恣意性が伴うものなのだが、その恣意性をどう扱うかという点に「文体」の根底が生まれるのではないか」(p.50)。
 「と、僕は今、自分が置かれた状況を可能な限り文章にしようとしたのだが、これは小説ではない。なぜ小説ではないのかというと、展開を暗示していないからだ。この文章が小説になるためには、この後に話が展開しなければならないし、話が展開していったときに、ここで書かれた文章が暗示の役割を担わなければならない」(p.82)。
 「これらの例と同じく、多くの場合、小説にも「象徴的で影響力の大きな出来事」か、あるいは「象徴的で影響力の大きな出来事の伏線」ばかりが描かれている」(p.84)。
 「小説の書き手にとって唯一の手がかりは「自分が面白いと感じるかどうか」であるのに、小説を評価する基準は常に「読者(他者)が面白いと感じるかどうか」であり、この「原理的に埋められない差」が埋まらなければ、小説は面白くならない」(p.102)。

津原泰水著『バレエメカニック』2026年02月06日 22:22

 長編。耽美+幻想+サイバーパンク。理沙は、大脳皮質を失い植物状態のまま「生き続けて」いる。ある日、突然、東京が奇怪な幻想に包まれる。ラジオはモーツァルトしか流れず、海から離れた高速道路を突如津波が襲い、見上げるほどの巨大な蜘蛛が町を闊歩した。理沙が失った大脳皮質の代わりに都市全体を「思考の場」として利用し始めたのだ。東京は理沙の夢の中に包み込まれたのである。
 それらの幻想は、単なる幻覚なのか、実体を持っていのかがよく判らない。ある老人が幻想の中に足を踏み入れた途端「重力の向き」が変わって墜落していく場面は鮮烈だ。そして老人は「墜落死」する。幻想に殺されたのだ。
 機械装置は信頼できないので、巨大なばんえい馬が牽く馬車に乗って、何が現実なのか曖昧なまま、理沙の父親と主治医が東京を旅するのが第一章の主筋である。酩酊感を伴うシュルリアリスティックな詩情が素晴らしい。後に「理沙パニック」と名付けられるこの現象は、理沙の肉体の死によって収まる。
 第二章では、理沙の父親は、東京の町に理沙の意識は残っていると信じて、その証拠を探し出そうとする。再び主治医と二人の旅が始まる。
 第三章は完全なサイバーパンクである。近未来、年老いた理沙の主治医は、充実した情報インフラの中に構築された仮想空間を通じて、理沙を探し出して「殺そうと」あるいは「解放しようと」する。
 解説で柳下毅一郎はJ・G・バラードを引き合いに出しているが、奇怪かつ華やかな幻想の背後に、確かにバラードに通じる「静謐」があるように感じられる。

白川静・梅原猛著『呪の思想 神と人との間』2026年01月31日 22:01

 対談。主に古代中国の詩と孔子に関する話題。白川静だから漢字の分析もある。面白かったのは、古代中国の詩には「呪術的意味」があったとするところ。それをたとえば朱子学などは合理的に解釈しようとするから本質を捕らえ損ねている、という。自分が中国の歴史を知らないことに愕然とする。知らねばならないことは多い。

原聖著『ケルトとは何か』2026年01月27日 22:01

 ケルト研究の総合的な解説書。
 第一章では、いったんはほとんど途絶えてしまったケルト文化を、近代以降に再現しようとした「創られた伝統」について。我々がケルトと聞いて思い浮かべるアーサー王伝説や音楽などは、実は古代ケルト文化とは必ずしも連続性がなく、「ヨーロッパナショナリズム」のようなイデオロギーを補強するために、無理に再現された面があるというような話。
 第二章から第四章は、ケルトの美術や文芸などの解説。
 第五章では、近代に想像された伝統ではなく、古代から継続されてきた文化として「言語」に注目し、ケルト人の移動とケルト文化の伝播について。
 第六章は、現代のケルト諸語の保存活動について。
 ケルト人やケルト文化の歴史や特徴がよくわかって面白かった。しかし、これは縄文研究などでも思うことだが、ケルト人はどんな生活をしていたのか、どんな宇宙観や人間観を持っていたのかなどはほとんどわからなかった。そこが知りたいのだが。
 「社会言語学、とりわけ移民たちの言語の研究によれば、言語は通常、三代で取って替わる。移民第一世代は母語でない現地の言葉の習得には苦労するが、第二世代は教育を現地の学校で受けるので、ふつうはバイリンガル、二言語使用者として育つ。そして、第三世代になると、家庭の言語も現地の言語となり、言語の移転が完成する、ということになる」(p.91)。
 「歴史的にはこの逆の言語移転、すなわち移住した言語が生き残り、現地の言語が消滅することもあった。たとえば中南米のスペイン語であり、北米の英語である」(p.91)。
 「このように、言語の取替えは、支配者側から押し付けられるものではなく、その言語がより大きな威信を持つかどうかによるのである。/さらにいえば、この「威信」には書きことばの存在が大きくものをいうといっていいだろう。書きことばが整備されることは、標準的書きことばが流通する、すなわち文字を理解する人々がいるということであり、それが文化的威信の指標となるのである。もちろん、書きことばの存在以前の段階では、物質文化の「質」の問題、豊かさのレベルが文化的威信ということになるだろう」(p.93)。
 「韻文というのは、文章の音節数を一定にしたり、文章末の音を同一にする技法だが、声に出して初めて意味を持つ技であり、口頭伝承のなかで鍛えられるといっていい。しかしながら、これが書きことばの規範成立のもとになったのである。なぜかといえば、韻文の規範が複雑になると、書いて検証することが必要になるからである」(p.101)。
 「こうした話者数が一〇〇〇人にも満たないような極少数言語は、運動家の存在に左右される。それがひとりだけであれば、統一的な復興運動が可能だが、こうした言語運動は総じて知識人たちが主体となるので、そういうわけにはいかない。運動家各自がそれぞれ理論武装をして、さまざまな原則が主張され、まとまらないことがけっこうある。さまざまな言語運動の様子を観察している私の感想からいえば、小さい言語ほど、こうした分裂状態に陥るようだ。それは自分たちでやっていくしかないという思い入れの強さの表現でもある。こうした状況では外からの助言はなかなか難しい」(p.224)。