『現代思想2020年1月号』から2022年08月01日 21:45

2021年10月 9日記す。
 脇坂真弥「人間の生の≪ありえなさ≫ シモーヌ・ヴェイユの「不幸」の概念を手掛かりにして」。
 「この問い(なぜ私なのか)を叫ぶ者は、自分の不幸の転落において自分が弱すぎたこと、すなわち「私が≪この私≫であること」がその状況に対して全く無力であったことを目の当たりにし、激しい自責の念に駆られている。だが、このとき同時に、その人はそれとは全く逆の事態にも直面していた。それは、自分が転落の閾値に立つよう選ばれたこと自体がそもそも偶然だったこと、すなわち「私が≪この私≫であること」は無力であるどころか、最初からカウントさえされていなかったという事実である。しかし、この事実を知ることは、当事者の自責の念をいやすことはない」(p.110)。
 「不幸が本質的に偶然なものである以上、そこへ転落する可能性を免れている人はいない」(p.111)。
 このエッセイとは直接関係ないが、次の仮説を思いつく。「積極的に悲しい目や怖い目に遭いたいと思う人はいないのに、悲劇映画やホラー映画を見に行く人が少なくないのはなぜか」という問いがある。それは「人間の生は本来的に悲しく恐ろしいものなので、他者の悲しみや恐怖に寄り添うことで、それがいくらか慰められるから」ではないか、という仮説というか妄想である。

『現代思想2020年1月号』から2022年08月02日 21:53

2021年10月10日記す。
 セバスチャン・レードル「共同行為と複数自己意識」。
 内容はいたって真面目な哲学エッセイ。行為と複数行為の意識の同質性、というようなもの。しかし俺の興味を引いたのは内容ではない。
 「ヘレンはやかんに水を注いでいる。注ぎ終わって、今度はコンロに火をつけている。やかんに水を注ぐことによって、そしてコンロに火をつけることによって、ヘレンは紅茶を作っている。やかんに水を注ぐこととコンロに火をつけることは、紅茶を作るという一つの行為に部分として共に属している。紅茶を作る行為は、やかんに水を注ぐこととコンロに火をつけること----一方は今為されており、その後他方が為される----を含むことで、時間上に広がっている。さらに言うと、コンロに火をつけるとき、ヘレンは片方の手でガス栓をひねり、もう片方の手で点火している」(p.120)。
 切りがないのでこのくらいにするが、こういう日常的な行為の回りくどい描写というか説明が、延々と続く。繰り返しの多いくどい文章の奇妙さに、にやにやしながら読む。人間の行為を分析するのが目的で、ユーモアを意図したものではないことが、よりおかしさを生む。

『現代思想2020年1月号』から2022年08月03日 21:34

2021年10月11日記す。
 大橋完太郎「ポストトゥルース試論 2020 ver.1.0「真実以後」を思考する(ための)哲学」。
 古代ギリシャの哲学者イソクラテスの言葉「彼ら(当時の人)は愚劣な者が演壇にあがるのをよしとしていたのであり、「私財を公共奉仕に充てる者ではなく国庫から給付金をばらまく者」を民主的な人間とみなしていた」(p.153)。
 身につまされる。

『現代思想2020年1月号』から2022年08月04日 22:16

2021年10月12日記す。
 山内朋樹「描線の生態系 漫画『風の谷のナウシカ』における森=腐海の発生」。
 宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』の腐海は、環境保全的な問題意識から構想されたものではなく、実は、絵としての面白さから着想された、という趣旨。実も蓋もない言い方をすれば「砂漠より森の方が絵として面白い」というところから腐海は生まれた。
 エッセイの題名にもなっている「描線の生態系」という言葉が大変に気に入る。作家の意図や思想からではなく、描線相互の関係が絵を作り上げる、という、作品の作家からの自立性を感じさせるからであろう。

ジーン・ポーター著『リンバロストの乙女』上下2022年08月05日 22:25

2021年10月17日読了。
 長編。梨木香歩のエッセイ集に収められていた解説があまりにも面白かったので読んだ。予想以上に面白かった。今世紀初頭に書かれたアメリカの家庭小説。翻訳は『赤毛のアン』の村岡花子。
 主人公は美しく賢く正しいこの時代の正統派主人公。つまり、人物としては類型的で面白くない。前半の敵役である母親のケートが圧倒的に面白い。自分にとって重要なことをはっきり見定めていて、そのためにはなりふり構わない。世間体とか、善悪とか、美醜とか、真偽とか、そういうことには頓着しない。愛する夫を奪ったのが娘だと思って恨み虐げている。ある意味では陰湿ないじめなのだが、その悪意が明快でいっそすがすがしい。その点では正直なのである。
 敬愛していた夫の裏切りを知り、自分が娘をいかに愛していたかに気づいた時の、娘への献身ぶりはすさまじいという以上の狂気を感じさせるものである。後半は娘との仲は改善するが、決して常識人になったわけではなく、目的のためなら手段を択ばぬような爆発力をひそませている。
 この母親に比べると後半の敵役である恋敵はやや小者というか、わかりやすい利己的性格なので、しりすぼみ感は否めない。それでも退屈することなく最後まで読める。
 主人公は蛾の標本を作って売ることで収入を得ているが、それに関連するナチュラリスト的な愛情のこもった自然描写も読みどころの一つ。