永井均著『新版 哲学の密かな闘い』2024年01月23日 23:56

 人生相談、エッセイ、論文など様々な文章を集めたもの。寄せ集めと言えばその通りだが、いくつかの主題毎に纏められているので、永井均の哲学の全体像が見渡せる。永井均入門として良いかもしれない。立てられている主題は、人生、自己、倫理、存在、言語の五つである。いずれの問題も、「<私><今><現実>の独在性と並立制の矛盾」という永井均的問題を出発点として語られる。
 「新聞や雑誌に登場するいわゆる公的元論は、ニヒリズムの存在を無視している。たとえば、戦争は絶対にいけないのか正義の戦争はありうるのかといった論争の場で、「そんなことはどうでもいいことなんじゃないか」などといった主張や見地は、そもそも登場する余地がない。そんな見地はあってはならないことが前提なのだ」(p.84)。
 「そうした議論はすべて、なぜだかもうすでのそうした議論に興味と関心を持ち、論じようとするだけの力(パワー)をすでに持ってしまった人々の間でだけ成り立つ、じつは仲間内の議論なのに、議論に従事している人々は、そのことには気づいていないし、それゆえ当然、そういう仲間の成立そのものの意味については考えようとしないからである」(p.85)。
 「この同類の仲間に入る----つまり何か具体的な意味のあることがやれる人になる----には、どうしたらよいのだろう。ここに課題がある。少なくとも私にとってはつねにそうであったし、今なおそうだ」(p.87)。
 「哲学の力は、しょせんすべて小さなことだという事実をなぜだか根底において認めてしまった人が、そのことを力とする逆向きのエネルギーなのである。だから哲学は、自分自身が最も強く献身しているものの無を最も深く知ることができる、根源的にニヒリスティッシュな文化であり、当然、生の根底を掘り返そうとする破壊的な文化である」(p.95)。
 「とはいえしかし、その認識をなぜ人に語る必要があるのだろうか。私に考えられる唯一の答えは、ないことを絆とするマイナスの連帯を作り出すため、というものである。つまり、それによってあらゆる種類のプラスの連帯と闘うためである。しかし、そんなことはどうでもいいことなのではないのか。もちろん究極的にはそうだ。だからそれは、究極的にはそうであることによる連帯である。だから、それは究極的にはもはや連帯ではない」(p.99)。
 「キャヴェンディッシュという科学者は、多くの科学的発見をしながら、それをいっさい公表しなかったそうである。残されたノートがたまたま百年後のマクスウェルに読まれてしまったらしいが、もし、読まれなければキャヴェンディッシュの名は知られなかったであろう。ひょっとすると、多くのそういう認識者が存在するのではないだろうか。公表されていない陰の哲学史が存在するかもしれない。そうであるとすれば、なんとすばらしいことだろう」(p.99)。
 「しょせんはすべては小さなことであるという認識こそが、生きる力になり、それこそが他者に対する道徳的配慮の根拠になる可能性が考えられるだろう。いや、それ以外の可能性を、少なくとも私は、もはや信じることができない」(p.101)。
 「中島(義道)の言うことは正しいだろうが、われわれの社会は社会の価値観に疑問を感じない「鈍感」な「善人」たちのおかげで成立していることは疑う余地がない」(p.123)。
 「一般に、あるゲームからの降り方がそのゲームの内部のルールによって定められていたとしても実効性はないだろう。それに従わない場合の罰則もまたそのゲームの内部にしかありえないからである。この世の中から降りるつもりの人に、その降り方をこの世の中が規定してやっても説得力はないだろう」(p.132)。
 「嘘を思うことができないのは、嘘が定義上「思っていることに反すること」だからである。したがって、嘘を思うとは概念矛盾となる」(p.277)。

イタロ・カルヴィーノ著『マルコヴァルドさんの四季』2024年01月25日 22:25

 連作短編の形式。主人公のマルコヴァルドさんは、都会の暮らしになじみにくい人物だが、貧しく妻子も養わなければならないので都会を離れることができない。毎回、都会の中に自然の気配を感じ取り、自然的な暮らしを夢に見るが、最後は必ずがっかりさせられる、という形式の短い話が繰り返される。
 最初は民話的な、ほのぼのともいえる感じなのだが、回を追うごとに現代社会、とくに市場経済への風刺の色が強くなる。といっても、説教じみた教訓話ではなく、全体に皮肉なユーモアが満ちている。
 しかし、俺が一番気に入っているのは、マルコヴァルドさんが自然を夢見て都会をさ迷っているうちに、なにやら幻想的でシュールにも見える場所に迷い込んでしまうところである。
 「まちがった停留所」では、まちがった停留所で降りてしまったマルコヴァルドさんが、霧の中で迷い、少しでも見晴らしの良い場所へ行こうとして塀に登り、周囲の見えない霧の中、幅の狭い塀の上をどこまでも辿っていく。
 「スーパーマーケットへ行ったマルコヴァルドさん」では、スーパーマーケットへ行ったマルコヴァルドさん一家が、商品を満載にしたカートを押しながら店内を駆け巡り、やがて、店舗の拡張工事をやっている壁の穴から工事現場に迷い出て、足場の板の上を一列になって進んでいく。
 別に神秘的なことが起こっているわけではないのだが、妙にシュールな絵柄なのである。

古川日出男著『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』2024年01月27日 22:11

 題名通り、紫式部が自分の日記を現代語訳するという形式の小説。日記の訳の部分と、紫式部がどんな考えで訳を行ったかという考えを述べる部分が交互に書かれる。日記の前半は、紫式部が使える中宮の出産を中心に、平安貴族の日々の出来事や行事などが描写される。後半では、日記というより、身近な女性たちの描写が中心になり、辛辣な批判もあって面白い。特に、教養主義的な紫式部が、感覚主義的な清少納言を批判し嫌っているところが俺には面白かった。
 平安的な視点の生差別問題なども描かれているが、巻末の「自作解題」によると、これは著者のある短編がある女性批評家に「中年男性が、若い女の一人称で語っているのが、気持ち悪い」と評されたことに関連しているらしい。古川日出男がそんなこと気にするなんて、ちょっと意外。

イーヴ・ガーネット著『ふくろ小路一番地』2024年01月30日 23:30

 イギリスの田舎町オトウェルに住む、ラッグルス一家の物語。オトウェルは架空の街だが、巻頭に著者自身による詳細な地図がついている。著者はもともと画家で、挿絵も著者による。岩波少年文庫の常だが、この挿絵がまた素晴らしい。ラッグルスの家は貧しい労働者階級で、おかみさんは洗濯屋で旦那さんはごみの収集をしている。この夫婦には七人の子供がいる。刊行されたのは1937年で、物語の設定も同時期と思われる。描かれるのは一家の日常で、物凄い大事件とか、神秘的なことは起こらない。
 一家は貧しいが、日々を心豊かに生きており、教養はないがある面では大変に賢くもある。しかし、もちろん聖人君主というわけではなくいわゆる庶民である。「二時間はまったくあっというまにすぎてしまって、(親類のうわさ話----とくににわるくちを言っていると、時間は、あっというまにたつものです)」(p.289)という具合。
 一家の行動範囲は狭く、旦那さんの望みは旅費をためてロンドンの親戚のところへ行くことである。そのあたりが、ラッグルス一家にとっての世界の果てということになる。それが一家の宇宙である。小説家のショート氏はこう思う。
 「八人の人間(赤んぼは、べつにロンドンゆきには無関心でしょうから、入れないとして)が、ひとりあたま五シリングで、一生の望みをとげ、これほど幸福になれるとは……五シリングで! なんてことだ!ラッグルスさんをあわれんだら、いいのか、うらやんだら、いいのか、ショート氏にはわかりませんでした」(p.255)。
 子供たちに特別なところはないが、それぞれが個性豊かに描き分けられている。しかし、三女のペグだけは活躍の場がなく、ちょっと可哀想である。まあ、本人はそんなことに不満を感じてはいないだろうが。
 俺はこの本を「子供たちの日常が活き活きと描かれた良質の児童文学」として単身だが、実は、この本は英国児童文学史上の重要作品なのだった。解説によると「この本が、イギリスの児童文学史上初めて「労働者階級」の子どもを取り上げたことで大きな話題となったことは、よく知られています」(p.328)。つまり、それまで英国児童文学には労働者階級というものは存在しなかったらしいのである。
 やはり解説によると、自身は上流階級の出身である著者に対して「あなたはどうしてこの本に出てくるような種類の人々について内情に通じた知識を獲得したのか」という質問が多く寄せられたという。それに対して著者は「貧しい人々はいつだって自分たちのそばにいるのだから、関心さえあれば知ることはできる者、自分が特別にその人たちについて知識があるなんて考えもしなかった。あまりにも多くの人が、こんな質問をしたこと自体が驚きだった」(p.331)と答えている。
 さらに「『ふくろ小路一番地』がどんな作品なのか、どんな意味をもっているのかは読者が決めることだけれども、重ねていわせてもらえるなら、「貧しい人々」がいつもわたしたちのそばに、わたしたちと共にいることを忘れてほしくない」(p.332)とも言っている。
 まあ、そんな事情を知らなくても楽しい作品である。