合田正人他著『いま、哲学が始まる。明大文学部からの挑戦』2024年01月05日 23:13

 2018年4月に哲学専攻を創設した明治大学文学部の創設メンバー五人が、これから哲学を学ぼうとする人たちに向けた解説書。
 「先ほど「幸福とは何か」という問いが例に出されていましたが、中国では幸福という単語は古典にはほとんど出てこなくて、たんに「福」っていう場合が多いですが、ではその服は何かというと、子どもがたくさんいることなんです。子孫の繁栄、一家の繁栄です。「幸福とは何か」と問うよりも、「子供がたくさんいるとはどういうことか」という問いを立てたほうが、たぶん中国の人だったら思考がどんどん進むでしょう」(p.37 第1章 いま、なぜ、哲学か 志野好伸)。
 「ここでデカルトは、科学の目標に変更を加えています。自然法則の候補を絞りこめないことがも代になるのは、科学の使命は世界の真のありかたの解明にあると考えているからです。しかし、もし科学の使命が、人間の生活に役に立つ成果をあげることであったらどうでしょうか。その時には、監察結果を説明できるような法則を考えだせれば、目標を達成できることになります」(p.133 第4章 科学をつくる 坂本邦暢)。

トンケ・ドラフト著『ふたごの兄弟の物語』上下2024年01月07日 22:33

 岩波少年文庫。舞台は架空の王国バビナ国。時代は古代と中世の間くらい。文化は欧州風である。貧しい家に生まれた双子の兄弟ラウレンゾーとジャコモは、見た目は見分けがつかないほどの瓜二つだが、性格は対照的で、兄のラウレンゾーは貴金属細工師に弟子入りして真面目に修行するが、弟のジャコモは旅や冒険が大好き。
 物語は、ふたごが活躍する十二のエピソードで構成される。ミステリの形式の話が多い。つまり、何か事件が起こり、双子が探偵役となって真相を解明する。しかし、俺がミステリファンでないためもあって、例外のミステリでない話が面白い。例えば、第九話「ティラニア国の王」では、船旅で難破した双子が、漂着した島の国で、争いを治めるために王様にさせられる。
 いずれの話でも、双子が瓜二つであることを利用したトリックや、勘違いが効果的に使われている。著者はオランダ人の女性作家だが、シェイクスピアが好きなようだから、『間違いの喜劇』の影響もあるのかもしれない。ややこしや。

永井均著『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』2024年01月12日 18:24

 いつもの永井的「意識(私)の特殊性と一般性の累進構造」の話だが、今回は「第一次内包、第二次内包、第〇次内包、無内包」の概念がある程度わかったのが収穫であった。
 水の例で言えば「無色透明の粘り気のない液体で、ふつうは冷たく、飲むことができる」というのが一般化して共有できる第一次内包で、「H2O」というのが概念化された第二次内包で、他者と共有できない自分だけの水体験が第〇次内包である。そして、それ以前の無内包というものがあることになる。
 第二次内包は第一次内包を通してしか到達できないが、いったん成立してしまうと、第二次内包の方が「前提」のようになってしまう。面白いことに、時系列的には第一次内包よりも前にあるはずの第〇次内包が、第一次内包を通じて振り返る形でしか内省的には到達できないという点である。
 「心なんて一般的なものは見たこともないのに、なぜそんなものが一般的に----私にもあなたにも彼にも彼女にも----あると信じられてしまっているのか。それがまずは、問題じゃないですか」(p.3)。
 「そして次に、物とか物質って、そもそも何ですか? 脳だって結局は誰かに知覚されて脳だとわかるわけでしょ? 脳とそれが作り出す意識との関係が論じられる以前に、知覚される脳と物体としての脳との関係がまずは論じられなければならないのではないでしょうか」(p.4)。
 「(脳と意識の関係は)他のどんなことにも似ていない! そうなのです。そして、何にも似ていない事柄については、説明ということが成り立ちません。こういう場合には一般にこういうことが起こるものであって、これもその一例なのだ、ということか言えないからです。どうも人間はそういう状況がずいぶんと嫌いらしく、無理にでも何かに似せようとする傾向があります」(p.7)。

アーシュラ・K・ル・グウィン著『赦しへの四つの道』2024年01月16日 22:49

 いずれも同じ惑星を舞台にした「ハイニッシュ・ユニバース」シリーズの連作短編四編を収録。あからさまなフェミニズムテーマ。惑星ウェレルでは、惑星間航行が可能な文明を持ちながらいまだに奴隷制度があり、女性差別も激しく、奴隷女性は二重の差別を受けている。ウェレルの植民惑星であったイェイオーウェイは、つい最近奴隷制度が廃止されたが、解放奴隷同士の部族間闘争がやまず、女性差別も残っている。奴隷は、女は、人間はいかに解放されるかという四つの物語である。奴隷とフェミニズムとくれば、当然、アメリカの歴史の隠喩であろう。人間は充分に賢くも善くも成れない。それは結論ではなく前提である。そして、全く賢くないわけでも善くないわけでもない。

ジョン・エリス・マクタガート著『時間の非実在性』2024年01月19日 23:03

 イギリスの哲学者ジョン・エリス・マクタガートが百年前に書いた論文の永井均による訳だが、本文は四十ページ余りしかなく、それに数倍する永井均による注釈と論評と付論がつく。
 要旨としては「時間概念には矛盾があり、したがって時間は実在しない」というもの。矛盾の内容は、マクタガートの語法によれば「時点あるいは出来事は、未来、現在、過去のいずれかであり、複数が両立することはあり得ないが、一方で、自転あるいは出来事は相対的に未来でも現在でも過去でもある」ということである。永井均的な語法で言えば「相対化不可能な端的な現在と観点に依存して相対的な現在」の矛盾である。
 「時間は、他のいかなるものにも似ていないので、哲学的時間論は類比の鋭利さの競い合いにならざるをえない。もちろん、どの類比も時間の一面しか捉えていない」(p.4「はじめに」)。
 論文本文第65段落の永井均による要約「私が直接的に知覚するときが現在であるとされるが、この定義には循環が含まれている。「私が直接的に知覚するとき」は「それが現在であるとき」を意味するからだ」(p.179)。
 ある時点における現在、というような「いつでも現在と言える」現在の相対性について「なぜそうなるのかと言えば、それは「いつでも現在である」の現在ではなく、「その「いつでも」のうちの一時点が端的に現在である」のほうの「現在」の在り処が、本質的に「その内側しか捉えられない」というあり方をしているからである。したがってそれは、その外側から見れば、実在しない」(p.193)。
 「この矛盾が哲学的に重要な意味を持つ理由は、観点依存的でない絶対的な捉え方が観点依存的で相対的な捉え方を(どこまでも)超出していくのに対し、観点依存的で相対的な捉え方は観点依存的でない絶対的な捉え方を(どこまでも)自分のうちに吸収しようとするからである」(p.241)。
 「神はたくさんの生き物の中から私を識別することができない。神はまた、諸時点のうちから現在を識別することもできない。それらはいずれも、端的な内側だからである」(p.241)。
 「欺く神と闘ったデカルトがある一点で神に勝利してしまうのはまさにそれゆえである」(p.242)。
 「しかし、それゆえに時間が実在できなくなる、などということはありえない。むしろ、ここからいえることは、時間の存在のためにはその矛盾が不可欠である、という事実であろう」(p.250)。
 矛盾しながら両立して破綻しない。曲芸のようだが我々は日常においてやすやすとそれをやっている。