ニック・ボストロム著『スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の運命』2023年10月04日 23:16

 著者が今世紀中には現われるであろうと予測する、あらゆる面で人間を超えた知性を発揮する汎用AIに関する評論。著者はこれをスーパーインテリジェンスと呼び、本文中では超絶知能とも表記される。
 何しろ最近になって生起してきた新しい問題なので、説明するためには新しい概念が必要となり、新しい概念には新しい名前が付けられていて、頻出する馴染みのない用語に戸惑う。特に片仮名。「スキャッフォルディング」だの「イネーブラー」だの、何のこっちゃ、と思う。こういう時、漢字は優れているなあと思う。表意文字なら、聞いたことがない言葉でも何となく意味が推測できるからである。明治期に欧米の学問の用語を漢訳したのは、何と偉大な作業であったことよ。
 さて、本書の序版では、AI開発の歴史と現状などが語られるが、中心となる主題は、近未来に登場が予想される超絶知能はどのようなものになるかという予測と、人類を滅亡させかねない超絶知能の暴走をどのように防ぐかというコントロール問題である。
 超絶知能の特徴に関しては、完全なデジタルAIのほか、人間の脳のエミュレーションとか、神経細胞などを使った半生体的ハードウェア、さまざまな情報デバイスが協調する集合知などが考えられ、そのそれぞれがどのように生まれてどのように人間社会とかかわるかなどが考察される。しかしまあ、結論から言ってしまえば、超絶知能の「全ての面で人間を超えた知性」という定義から、その振る舞いを人間が予測するのは無理な話である。予測できれば超えていないのである。
 したがって、コントロール問題では、著者がポスト移行期と呼ぶ超絶知能誕生以後になっては何をやっても手遅れである。人間のやることはすべてお見通しだからである。すなわち、コントロール問題は超絶知能誕生以前に解決しておかなければならないのだが、AIが自分で自分を改良する自律性を獲得すると、それ以降、いつ循環的知能爆発が起こって超絶知能が誕生するかは予測できない。だから、今の内に考えておきましょう、というのが著者の主張である。
 方法としては、機能や効率を犠牲にしてでも超絶知能のやることなすことすべて監視するだとか、質問に答えるだけで現実世界に直接介入しないオラクル(託宣)型のAIにするだとかがあるが、究極的にはそのAIにどんな価値観を植え付けるか、という問題に収斂する。AIに「人間に奉仕する」という目的を持たせられると良いのだが、それをコンピュータに理解できる形にコードするのが難しい。超絶知能なら奉仕というような抽象的な言い方でも意味を汲んでくれるであろうが、人間を越えた知性がそれを素直に受けれてくれるとは限らないというジレンマ。著者にも最終的な結論はなく、国家や企業などの私欲を越えて広く考え続けることを提唱している。
 2014年に発表された本だが、進歩の速いこの分野、既に古くなっている部分も多い。深層学習についてはほとんど言及がないし、チャットGPTは影も形もない。また、関連する事項については網羅的体系的に記述されてはいるのだが、全脳エミュレーションに関しては妙に楽観的なのに、ブレインマシンインターフェスにやたら悲観的だったりして、バランスが合ってるのか首をかしげるところもある。
 そして、最初に言った用語の問題もあり、文章が読みにくい。俺の場合は、内容が退屈なわけでもないのにやたら眠くなって困った。文章に催眠性があるのである。おかげて読み通すのにずいぶん時間がかかってしまった。

中村桂子著『老いを愛づる』2023年10月05日 23:15

 八十六歳になった著者が、自分を刺激してくれた様々な人たちの言葉をきっかけに、老いについて語るエッセイ。題名に「愛づる」とあるように、老いを肯定的にとらえる内容である。
 「真宗大谷派難波別院の掲示板には、「これでいいのだ ~赤塚不二夫~」とあるとのことです。バカボンのパパのこのセリフは、「ありのままを受け入れる」というお釈迦様の悟りの境地に重なると解説されていました」(p.33)。
 フーテンの寅さんの台詞「キリがありませんから」。「日常の家事はどれもいつ終わるともなく続くものばかりです。何もかもきちんとやろうと思ったら疲れますし、終わらないのは自分の不手際のように思えて落ち込みます。年齢を重ねれば、そのようなことが増えていきます。そこで、そろそろ疲れて来たなあと思う時、「キリがありませんから」と言って切り上げることにしました」(p.36)。
 もう一つ寅さんの言葉。「ああ生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるんじゃない、ね。そのために人間生きてんじゃねぇのか。お前にもそういう時が来るよ、うん。まあ、がんばれ」(p.38)。
 テレビドラマ『北の国から』の主人公、黒板五郎の台詞「もしもどうしても欲しいもンがあったら、自分で工夫してつくっていくンです。つくるのがどうしても面倒くさかったら、それはたいして欲しくないってことです」(p.42)。
 『北の国から』の脚本家、倉本聰の言葉「東京の若者に「生きていくのになくてはならないものは何?」と聞くと、携帯電話という答えが返ってくる(まだスマホではありませんでした)。それに対して、富良野で暮らし始めた若者たちは、まず「水」と言い、「暮らしていくにはナイフが必要」と言うと」(p.46)。
 不登校になったフリースクールの子供達に「いのちのもんだいは○か×かですまない」という話をした時のある中学生の男の子の言葉「僕はこれまで、何でも○か×かで答えなさいと言われてきました」(p.73)。
 「人工的にアリをつくり出すことはできません。三八億年近い長い時間がなければ、アリは存在しないのです」(p.82)。
 j・ウェブスターの『あしながおじさん』の主人公ジュディの言葉。「たいがいの人たちは、ほんとうの生活をしていません。かれらはただ競争しているのです」(p.91)。
 1992年の地球サミットで、当時十二歳のカナダの少女、セヴァン、スズキの言葉。「学校で、いや、幼稚園でも、穴なたたち大人は私たち子どもに、世の中でどう振る舞うかを教えてくれます。たとえば、/・争いをしないこと/・話し合いで解決すること/・他人を尊重すること/・ちらかしたら自分で片づけること/・ほかの生きものをむやみに傷つけないこと/・分かち合うこと/・そして欲張らないこと/ならばなぜ、あなたたちは、私たちにするなということをしているのですか」(p.98)。
 世界一貧しい大統領と言われた、ウルグアイのムヒカ大統領「私は貧しいのではありません。質素なのです」(p.122)。
 中村哲「武器ではなく水を送りたい」(p.159)。養老孟司が言っていたことだが、日本政府は、賞を与えたり表彰したりという公式な形で中村哲を評価したことはないそうである。まったく何という国であろうか。政府ではなく中村哲を支援したい。
 水俣病の問題を描いた『苦海浄土』の作家、石牟礼道子「患者さんたちが思っている偉い人というのは徳の高い人です。患者さんたちはそういう人に会いたかったんです」(p.185)。

永井均著『<子ども>のための哲学』2023年10月11日 00:11

 ほんとうの哲学とは<子ども>の哲学である、というのが著者の主張。<子ども>の哲学とは、大人になると忘れがちな、存在の驚異への疑問を持ち続けることである。この本で主に論じられるのは、「なぜぼくは存在するのか」と「なぜ悪いことをしてはいけないか」の二つの疑問である。著者は子どもの哲学こそが本当の哲学だという。哲学の本質は「哲学すること」であって、「他人の哲学を研究し理解することは、哲学をするのとは全然違う種類の仕事である」(p.12)ということだ。一般的な哲学観とはちょっと違う。
 「大人だって、対人関係とか、世の中の不公平さとか、さまざまな問題を感じてはいる。しかし大人は、世の中で生きていくということの前提となっているようなことについて、疑問を持たない。子どもの問いは、その前提そのものに向けられているのだ。世界の存在や、自分の存在。世の中のそのものの成り立ちやしくみ。過去や未来の存在。宇宙の果てや時間の始まり。善悪の真の意味。生きていることと死ぬこと。それに世の習いとしての倫理(たとえば、知っている人に会ったらあいさつするとか)の不思議さ。などなど。こうしたすべてのことが、子どもにとっては問題である」(p.15)。
 「子どもの哲学の大きな特徴は、純粋に知的であることである。それによって何が変わるわけでもないが、ただ単に本当のことが知りたい。これが子どもの問いの特徴である」(p.21)。
 題名の「子ども」に「<>」がついているのは、年齢的な子どもを指しているのではなく、子どもの問いを持ち続けている人を指しているからである。
 「子どもの哲学の根本問題は、存在である。森羅万象が現にこうある、というそのことが不思議で、納得がいかないのだ」(p.24)。
 「青年の哲学の根本課題は、人生である。つまり、生き方の問題だ。いかに生きるべきか----このひとことに青年の問いは要約される」(p.24)。
 「大人の哲学の最重要課題は、世の中のしくみをどうしたらよいか、にある。生き方や人生の意味とは別の、社会の中での行為の決定の仕方が問題になる」(p.24)。
 「老人の哲学の究極主題は、死であり、そして無である。それを通じてもう一度、子ども時代の主題であった存在が、問題になるだろう」(p.25)。
 「青年の哲学、大人の哲学、老人の哲学は、それぞれ、文学、思想、宗教で代用できるが、子どもの哲学には代用がきかない。子どもの哲学こそが最も哲学らしい哲学である理由がそこにある」(p.25)。
 第一の問いである「なぜぼくは存在するのか」というのは、自分にとって自分が特別なのはなぜか、と言い換えることができる。なぜ自分はあそこにいる誰かではないのか。彼にも自分のような「主観」や「自我」があるはずである。第三者から見れば、自分の自我も彼の自我も同じようなものに見える筈である。しかしそれは交換不可能である。それはなぜか。
 たとえ、物質的には自分と全く同じ人間がもう一人いて、自分と全く同じように感じ、考え、行動したとしても、自分ともう一人を混同することは決してない。自分の自我、主観の座は揺らぐことはない。その独自性はどこから来るのか。それを説明しようとすると、たとえば独我論で説明すると、その説明はたちまち一般化してしまう。つまり、そういう独我論は誰の自我に対しても説明できてしまう。つまり、自分の特殊性は説明できない。うんと大雑把に言うと、そういうようなことが書かれてある。著者はそれを今も考え続けているらしい。
 第二の問題である「なぜ悪いことをしてはいけないのか」について、著者は、道徳というのは世の中でうまく生きていくための一種のまやかしであり、状況に応じて柔軟に適用される、という意味のことを言う。そして、それに対して「なぜそんなあたりまえのことをわざわざ言い立てる必要があるのか、という反応と、逆に、なぜそんなとんでもないことを言い出すのか、という反応」(p.178)の二種類の反応があるという。
 「人々の反応が二つに分かれる理由は、現に生きてはたらいている概念体系が二種類あるからである。(略)そして二つの概念体系とは、道徳的な善悪を基本とする概念体系と、道徳外的な好悪を基本とする概念体系のことである。どちらの側に立つかによって、人間も二種類に分かれるのだ」(p.179)。
 「道徳外的な好悪を基本とする側から見れば、道徳なんてものはすべて、道徳外的な価値(たとえばみんなの安全とか幸福とかいった)を実現するために存在する制度だ。だから、なくてもすむなら、そんなものはないほうがいいに決まっている。でも、道徳的な善悪を基本とする側から見ると、そういう見方がそれ自体で、すでに不道徳(道徳的な悪)なのだ」(p.179)。
 「でも、道徳外的概念体系から見れば、「偽善」とは実に奇妙な概念だ。だって、善いことをするふりをすれば、そのことによって善いことがなされてしまうのだから、それは単に善いだけではないか」(p.189)。
 しかし著者は、そしてニーチェは、まやかしではない道徳に似た価値感覚の存在を予感している。「ニーチェには、(一般的で通俗的な道徳を否定しながらも)ひじょうに根底的な意味での道徳的意図があったことは疑いない。それは道徳主義的な世界解釈に汚染されていない、それ以前の、あるいはそれを越えた、もっと純朴で強力な道徳感覚を取り戻したいという願いにささえられていた」(p.190)。
 この辺りから善悪の問題は内面化し、他者とは共有できないものとして、第一の問題と同じところに迷い込んでいく。
 池田晶子もそうだったが、哲学者というのはちょっと傲慢である。傲慢になるのは、前提レベルのところで何かの確信があるからであろう。一般的な日本人は前提レベルのところを山本七平が研究した「空気」が支配している。つまり前提が空虚である。そして空虚であるという自覚がない。たぶん無意識に直視することを避けている。

グレッグ・イーガン著『祈りの海』2023年10月14日 22:28

 イーガンの日本オリジナル初期短編集。この頃のイーガンは自己同一性の問題に取り憑かれていたことがわかる。解説で瀬名秀明が言っている通り、表題作の思考実験の緻密さ、主人公が自己の同一性に疑いもつことなど、感動的な傑作であることには同意する。しかし、俺が最も面白かったのは「ぼくになることを」や「誘拐」で描かれている、オリジナルの人格とデジタルツインとの自己同一性の混乱である。

鈴木生郎他著『現代形而上学 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』2023年10月18日 22:29

 現代形而上学の入門的解説書。形而上学の扱う範囲は非常に広いので、網羅的とは言えないが、主要な主題について最新の議論も含めて紹介されている。扱われる主な主題は、人の同一性、自由と決定論、様相、因果性、普遍、個物、存在依存、人工物の存在論の八つ。
 形而上学は「この世界の基礎的な在り方」を研究する学問である。俺の理解では「自然科学は主観を含めない客観主義で世界或いは存在を体系かしようとするが、形而上学は主観を含めた形で体系化しようとする」ものである。
 現代形而上学はこれに分析哲学的な方法を使う。つまり、問題は「明晰な言語による記述」によって解決される、という立場である。いわゆるウィトゲンシュタインの「言語論的転回」だが、実は俺はこれが腑に落ちていない。つまり、言語で明晰に記述されれば、世界の在り方や存在の問題が解決されたことになる、とはどうも思えないのである。前提の部分で納得できていないので、全ては詭弁のようにも見えてしまう。言語のパズルとして非常に面白く読めるが、それで世界の在り方を理解したという気分にはならないのである。
 その意味で、主要な主題としては扱われなかったが、終章で少し紹介された「メタ形而上学」が俺の興味を引いた。形而上学とはどのような知的活動かを問う分野である。
 「さらに、この論争の参加者は、実在世界の客観的な特徴そのものを探求していると考えているようだが、彼らがしているのは本当にそのようなことなのだろうか。むしろ彼らは単に、同じ一つの世界をどのような言葉で記述するかについて、つまり「言語の選択」について争っているだけなのではないか」(p.259)。
 現代形而上学の全体像がある程度見通せるという点で良書である。