池田晶子著『残酷人生論』2023年09月17日 22:38

 一編が四百字詰め四枚弱という短いエッセイが、主題毎に数編ずつまとめられた構成。主題は、生死、私、自由、情報、信じる、わかる、善悪、神、魂、幸福の十個。全体に、著者がほとんど自明と考えていることが、多くの人にはそうではないらしいことに苛立っている感じがある。どうしてこんなに当たり前のことが共有できないんだっ、という感じ。そのためであろう、言葉遣いがしばしば居丈高に断定的になり、傲慢な印象を与えることもある。その辺りは著者にも自覚があるらしく、「「普通」との距離がうまく測れないのである」(p.219)と言っている。
 「死」については、死は経験できないのだから無であり、存在しないものについては考えることができない、という。つまりあるのは生だけである。死がない以上、生は永遠だともいう。この辺りの理屈は俺にはよくわからないが、何か「永遠の現在」のような感じだろうか。
 著者はしばしば物事を「内容」と「形式」に分け、内容よりも形式の方が重要と考えているように読める。どうしてそうなるかは俺にはよくわからない。著者はまた科学万能主義を否定する。著者の好む言葉で言えば、「魂」の問題は質的なものであり、何でも量に換算したがる科学では扱えない、ということらしい。
 同意共感できる部分もあるが、全般に俺とは意見の異なる部分が多い。恐らく同意も共感もできないからこそ刺激があって面白い面もある。
 文中に福田和也の言葉引用されていて、面白かったので孫引きしておく。「批評というのは、相手に致命的なものを与えよう、殺そうと思って書くものなんですが」(p.51)。そうなんだ。

アリ・スミス著『五月 その他の短編』2023年09月19日 22:37

 収録作中、「五月」だけはアンソロジーで既読。
 巻頭の「普遍的な物語」では、何かを書きかけては「いや待て。ちがうな」とか、「今のもなし」とか、「待てよ----こうかもしれない」と言ってやり直す。語られるのは古本屋の蠅の物語から、その蠅が止まっていた『グレート・ギャツビー』の物語、そして「アートとして」『グレート・ギャツビー』の本を集めて船を造る女の物語。最後は結末らしい結末のないままはぐらかされたように唐突に終わる。読者は「普遍的な物語」という意味ありげな題名から何かを考えなければいけないのか、それとも全くのナンセンスなのか、よく判らないまま放り出される。
 「スコットランドのラブソング」では、主人公の女性が、他の人の目には見えないバグパイプの楽団に付き纏われ、その大音量のために耳が聞こえなくなる。面白いのは、この楽団が途中で別の女性に引き継がれるところである。前半の主人公が、それによって楽団から解放されたのかどうかは、書いてないので判らない。
 どの作品でも、日常を揺るがす奇妙なことが起こるのだが、それによって決定的な破滅に至ることはなく、かといって大団円ともならず、何かの教訓を読み取ることもできない。つまり決着がつかない。読者はその「意味のなさ」に耐えることを強いられる。だからと言って「性急に意味を求めすぎる世の中」を批判しているわけではもちろんない。強いて言えば「意味を回避し続けている」のである。

鈴木まもる著『生きものがつくる美しい家 動物たちのすごい巣121』2023年09月20日 22:29

動物の作るさまざまな構築物をイラストで紹介する。多くは出産や育児のための場所として使われる。安全で快適に眠ったり休んだりするための棲家も多い。蜘蛛の巣は狩りの道具で、ニワシドリの「あずまや」はメスを誘う求愛の道具。最も大きなものはビーバーの作るダムであろうか。体の大きさとの比率で言えば、シャカイハタオリの集合住宅や、シロアリの蟻塚も大きいが、それらが集団の家であるのに対して、ビーバーのダムは一家族用である。他種の動物がつくった古い巣を改築して使う場合も多いが、ツチブタの地下道にはたくさんの動物が居候していて面白い。

永井均著『子どものための哲学対話 人間は遊ぶために生きている!』2023年09月20日 22:30

 ぼくと哲学猫ペネトレの対話。
 「どんな分野にも、より楽しく、より深く遊ぶための、遊びかたの専門家が必要になってくるんだよ」(p41)。
 「友情って、本来友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな」(p.63)。
 「学問は、本来、勉強なんかじゃないさ。この世でいちばん楽しい遊びなんだよ」(p.123)。

フランシス・ホジソン・バーネット著『小公女』2023年09月22日 22:34

 『小公子』とは反対に、裕福な子供が貧しい境遇に落とされる話。こちらの方がエンターテインメントの王道である。また、『小公子』のように、子供が大人を導くということもない。意地悪で卑しい大人は最後まで意地悪で卑しいままである。それは、主人公のセーラが貧しい境遇にあっても公女の気概を失わなかったことと対応しているかもしれない。それだけに、愚かで弱々しいと思われていたミス・アーリアが、結末近くで突然、大局的な洞察を開くところは小気味よい。
 もちろん、最大のカタルシスは、インドの紳士が、セーラこそが探していた少女だと気付く場面にある。多くの読者はだいぶん前から「そうなるんだろうな」と思うわけだが、それでもやっぱり痛快である。神話元型、と名前を付けても何も説明したことにはならないが。