コリン・ウィルソン ダモン・ウィルソン著『世界不思議百科』 ― 2021年08月06日 21:14
19年 3月15日読了。
オカルト的な現象、事件などを網羅的に集めたエッセイ。古典と言って良いであろう。コリン・ウィルソンは「信じたい」人である。凡百のビリーバー達と違うのは、何でも信用しようとはせず、一度は疑ってみる事であろう。オカルティストが皆こういう態度であれば、今日の「胡散臭さ」は随分と解消されたであろうに。
全般に文章は下手。お世辞にも流麗とは言い難い。原著が悪いのか訳が悪いのかは知らない。構成はもっと下手。凝った積もりかも知らぬが却って判りにくい。これは明らかに原著の問題。荒俣宏には数段劣る。近代科学と対立的ではない形で説明を付けようとするところが西洋人か。
「文明は左側の脳にとどまることのない活動を要求する。これが右側の脳のあらゆる種類の『活動』をおさえつける」(p.582)。
こういう言葉の使い方が既に「左脳的」である事に無自覚に思われる。特にシンクロニシティに関しては「法則を見つけようとする」よりも「それに気付く感覚を磨く」ほうが有効ではなかろうか。この辺りに西洋の限界を感じるのは、おそらく東洋人の傲慢であろう。
オカルト的な現象、事件などを網羅的に集めたエッセイ。古典と言って良いであろう。コリン・ウィルソンは「信じたい」人である。凡百のビリーバー達と違うのは、何でも信用しようとはせず、一度は疑ってみる事であろう。オカルティストが皆こういう態度であれば、今日の「胡散臭さ」は随分と解消されたであろうに。
全般に文章は下手。お世辞にも流麗とは言い難い。原著が悪いのか訳が悪いのかは知らない。構成はもっと下手。凝った積もりかも知らぬが却って判りにくい。これは明らかに原著の問題。荒俣宏には数段劣る。近代科学と対立的ではない形で説明を付けようとするところが西洋人か。
「文明は左側の脳にとどまることのない活動を要求する。これが右側の脳のあらゆる種類の『活動』をおさえつける」(p.582)。
こういう言葉の使い方が既に「左脳的」である事に無自覚に思われる。特にシンクロニシティに関しては「法則を見つけようとする」よりも「それに気付く感覚を磨く」ほうが有効ではなかろうか。この辺りに西洋の限界を感じるのは、おそらく東洋人の傲慢であろう。
唐沢商会著『怪体新書』 ― 2021年08月07日 21:20
19年 3月16日読了。
体にまつわる蘊蓄漫画。唐沢商会はコリン・ウィルソンと対極的に、オカルトは端から信じない。これはこれで見落とす物がありそうな気もする。どの章も皮肉なユーモアに満ちていて面白いが、さまざまな死に方を集めた「とんころり」が俺好み。
体にまつわる蘊蓄漫画。唐沢商会はコリン・ウィルソンと対極的に、オカルトは端から信じない。これはこれで見落とす物がありそうな気もする。どの章も皮肉なユーモアに満ちていて面白いが、さまざまな死に方を集めた「とんころり」が俺好み。
養老孟司著『バカのものさし』 ― 2021年08月08日 21:17
19年 3月17日読了。
子どもの相談に養老孟司が応える形式。都市人の教育について「ぼくがひとつ、参考になると思っているのが、ユダヤ人の子育てです。彼らは、都会でしか、ほとんど住んでこなかった。それでも、かなりまっとうに育っているんです。しかもあれだけ迫害を受けてきたわけでしょう。とても真似はできないけれど、参考にはなるんじゃないかと思っています」(p.160)。
子どもの相談に養老孟司が応える形式。都市人の教育について「ぼくがひとつ、参考になると思っているのが、ユダヤ人の子育てです。彼らは、都会でしか、ほとんど住んでこなかった。それでも、かなりまっとうに育っているんです。しかもあれだけ迫害を受けてきたわけでしょう。とても真似はできないけれど、参考にはなるんじゃないかと思っています」(p.160)。
高山羽根子著『居た場所』 ― 2021年08月09日 21:32
19年 3月18日読了。
中編と短編二編。表題中編は何か奇妙な事が起こっているらしいのだが、最後まで良く判らない。もやもやした読後感。例えば、SFにありがちな「破滅の予感」のような不安感もなく、良いか悪いかという評価もできない。宙ぶらりん。
「蝦蟇雨」は何が起こっているか判る。理由は判らないが。主人公が「判ろうとするから苦しくなるのではないか」という意味の事を言うのが面白い。
「リアリティ・ショウ」はある種の「地獄」が描かれているのだが、地獄の住人はそれほど苦しんでおらず、希望がない中で鬱屈もせずに生きている。ある種の「元気な絶望」である。それを地獄と感じるのは外部から来た者達である。これも「評価の拒否」の形式である。
俺はこの三編から「評価の不可能性」という共通性を見出してしまった訳だが、そういう「抽象化に向かう思考」を批判されているような気もする。こういう「結論を回避する」傾向も一つの形式なんだよな。抽象化を回避しようとしている筈なのにどんどんメタに後退して行くのはなぜだ。
中編と短編二編。表題中編は何か奇妙な事が起こっているらしいのだが、最後まで良く判らない。もやもやした読後感。例えば、SFにありがちな「破滅の予感」のような不安感もなく、良いか悪いかという評価もできない。宙ぶらりん。
「蝦蟇雨」は何が起こっているか判る。理由は判らないが。主人公が「判ろうとするから苦しくなるのではないか」という意味の事を言うのが面白い。
「リアリティ・ショウ」はある種の「地獄」が描かれているのだが、地獄の住人はそれほど苦しんでおらず、希望がない中で鬱屈もせずに生きている。ある種の「元気な絶望」である。それを地獄と感じるのは外部から来た者達である。これも「評価の拒否」の形式である。
俺はこの三編から「評価の不可能性」という共通性を見出してしまった訳だが、そういう「抽象化に向かう思考」を批判されているような気もする。こういう「結論を回避する」傾向も一つの形式なんだよな。抽象化を回避しようとしている筈なのにどんどんメタに後退して行くのはなぜだ。
『別冊NHK100分de名著 読書の学校 養老孟司特別授業 「坊っちゃん」』 ― 2021年08月10日 21:59
19年 3月20日読了。
中学校で行われた特別授業の講義録。
「どの生徒の質問も、とても丁寧な字で書いてある。内容もよく読めている。大学なら『まあこれくらい読めているのなら、あとは自分で考えてください』と言って何も話さずに帰るところだ」(p.4)。
「人生を変える本があるように、世の中には人生をかけて書かれた本がある。私が面白いと思うのは、そういう本だ」(p.9)。
「偏見がないと何を見ているのか全く見当もつかない。それではものは見えない。観察をするためには、そのものを見るための偏見が必要です」(p.62)。
「日本では、楽しんで仕事をすると怒られる。難行苦行で、渋い顔をしてするものが偉い、それが良い仕事だと思われる節がある」(p.102)。
中学校で行われた特別授業の講義録。
「どの生徒の質問も、とても丁寧な字で書いてある。内容もよく読めている。大学なら『まあこれくらい読めているのなら、あとは自分で考えてください』と言って何も話さずに帰るところだ」(p.4)。
「人生を変える本があるように、世の中には人生をかけて書かれた本がある。私が面白いと思うのは、そういう本だ」(p.9)。
「偏見がないと何を見ているのか全く見当もつかない。それではものは見えない。観察をするためには、そのものを見るための偏見が必要です」(p.62)。
「日本では、楽しんで仕事をすると怒られる。難行苦行で、渋い顔をしてするものが偉い、それが良い仕事だと思われる節がある」(p.102)。
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