小川哲著『嘘と正典』2022年01月01日 16:06

20年 2月18日読了。
 短編集。六編収録。「魔術師」と「ひとすじの光」と「ムジカ・ムンダーナ」の三編で父親、それも既に失われた父親との葛藤が描かれている点がちょっと興味深い。早く死んでいたりして、いずれも母親の影が薄いのである。意図的なものではなく、作家の無意識の投影ではないかと推測される。
 書き下ろしの表題作以外は全て「SFマガジン」に掲載された作品だが、いずれもSF性は低い。特に「ひとすじの光」はSFと解釈するのは無理がある。読者としては面白ければ良いわけだが。
 実は一番好きなのはその「ひとすじの光」である。競馬好きの父子の話で、ある架空の馬の血統を巡る物語。馬の血統は、主人公の血筋に重なり合う。「ムジカ・ムンダーナ」も似た構成の話で、ここで父子の葛藤の中心は馬ではなく音楽である。どちらも、父の生前対立的だった父子の関係が、父の死後に「和解」ではないのだが「否定的対立」が「肯定的対立」に変化していく。
 俺には書き下ろしの表題作が一番退屈だった。冷戦時代の情報戦を中心にしたタイムパトロール物の変形である。アイデアにも人物にも魅力を感じなかった。

宮内悠介他著『宮内悠介リクエスト!博奕のアンソロジー』2022年01月02日 16:48

20年 2月21日読了。
 宮内悠介のリクエストによるアンソロジー。全体に予想よりは軽い内容。勿論、特にエンターテインメントにおいては軽い事は悪い事ではない。その中で山田正紀「開場賭博」はかなり読み応えがあった。有名な勝海舟と西郷隆盛の会談で、江戸城明け渡しの条件を実はチンチロリンで決めていた、という内容。勝の粋と西郷の素朴の組合わせの妙が小気味良い。
 知らなかった作家と出会うというのはアンソロジーの醍醐味の一つだが、日高トモキチ「レオノーラの卵」のシュールさが素晴らしかった。

宮内悠介著『偶然の聖地』2022年01月03日 15:38

20年 2月23日読了。
 面白かった。ごく限られたものしかその存在を知らない「世界医」と呼ばれる人達が、人知れず世界に発生した不具合(バグ)を修正(デバッグ)している、というシミュレーション世界的設定。最大の不具合であるイシュクト山は、いつ現れるか消えるか判らない山である。この山にさまざまな思惑を持った者達が集まって来る。途中、語る者と語られる者が循環入れ子構造に成っているメタフィクション的な展開も含まれていて、俺好み。
 毎月五枚半、という連載形式のためもあり、あまり精緻な構築性はなく、断片が積み重ねられていく。その緩さも気持ち良い。全体に語り口はユーモラスなのだが、単行本化に際して加筆された膨大な注釈もとぼけていて楽しい。
 宮内悠介だから当然登場人物も皆個性的で活き活きと描かれる。頭の中でマインドマップ描いてる刑事に親しみを持つ。
 エンターテインメントしては纏まりを欠く事に成るけど、結末はなくても良かったんじゃないの。

宮内悠介著『遠い他国でひょんと死ぬるや』2022年01月04日 22:04

20年 2月25日読了。
 長編。主筋だけを追えば、全体にユーモラスな語り口の冒険活劇。主人公の須藤はテレビ番組のディレクターだが、社会派の彼は思ったような番組が作れず、制作会社を辞める。第二次大戦末期、フィリピンで兵士として若くして死んだ詩人、竹内浩三の幻の第三ノートを求め、須藤はフィリピンへ渡る。須藤はそこでテレパシーや念力のような超能力を持つ女ナイマと出会い、ある漁村の日本人夫婦誘拐事件に巻き込まれる。
 物語には複数の軸がある。第一の主題は詩人竹内浩三へ寄せる須藤の思い。第二の主題はフィリピンという国の現状。第三の主題は第一の主題と関連するが、フィリピンと日本の間に横たわる歴史。どうもこの三者が、有機的に結び付かないままバラバラに進行する。ナイマの神秘的な力も筋立てに重要な役割を果たさない。
 しかし、宮内悠介ほどの手練れが、そんなミスをするとは思えないので、これは意図的な散漫さかも知れない。だとすると、俺が読み切れていないのであろう。
 登場人物達は皆それぞれに事情があり、完全な悪人も完全な善人も居ないので、エンターテインメント的カタルシスは弱いが、それは欠点に成っていない。登場人物が皆魅力的だからである。
 須藤と行動を共にする若い女性が二人登場する。彼女たちは異口同音に須藤を「あなたは自分を過小評価している」と批判する。須藤のこの自信のなさは、自分に対する「確信のなさ」に由来する。須藤は何度も「ここの人達は歴史の中で生きているが、自分だけが歴史の外に居る」という意味のことを言う。
 須藤は歴史の中で生きたいと思っているわけだが「自分に歴史に関る資格があるのか」という迷いがある。長年日本で「歴史と切れた」暮らしを続けていたからである。そのためには何か「日本とフィリピンの歴史の全体像」のような物を知る必要があると漠然と思っているのだが、どこまで行ってもそんな物は得られない。物語の散漫さは、それに対応しているのかもしれない。

柴田元幸 沼野充義著『200X年文学の旅』2022年01月05日 21:59

20年 2月28日読了。
 柴田元幸と沼野充義が交互に書くという形式のエッセイ。アメリカとロシアの現代文学が話題の中心だが、俺には現代文学と古典の関係について語られた部分が面白かった。
 柴田元幸「ひとことで言えば、彼ら(現代文学作家)にとって、古典文学は乗り越えるべき権威でも、殺してその座を簒奪するべき父親でもないように思える。(略)むしろ古典作家たちは彼らにとって対話すべき仲間であることが多いように思える。(略)とにかく仰ぐ対象ではあれ威嚇されはしない存在。要するに古典とのつきあい方がかつてよりマイルドになってきている感がある」(p.209)。古典は敵ではなく、神聖な物でもないが、無視して良い物でもない、ということか。
 巻末に翻訳者や作家数名とのシンポジウムが収録されているが、これが案外面白かった。
 堀江敏幸「(文学が)役に立っているかどうか、教えている側にも、享受する側にも、わからないわけです。わかっていて、それをやっているとしたら、むしろ不健全でしょう」(p.305)。
 池内紀「ミサイルよりもモーツァルトのほうが強いというのが、自分の生きている原理ですから、それに対する疑問はありません」(p.306)。
 中村和恵「わたしたちの多くが頼っている日常の物語がじつは、多くを失い困難を抱えた現代のアボリジニよりも場合によってはよほど痩せ細って単純な、紋切り型のものになってしまっている、物語が貧しくなってしまっている、そのことは大きな社会問題なんじゃないかという気もします」(p.307)。
 沼野充義「つまり『(同じ人間なのに)こんなにも違う!』と『(国が違うのに)こんなにもわかる!』の間の、理解不能の絶望と理解可能の感動の間の永遠の往復運動を私はやってきたような気がします」(p.313)。