令和2021年09月01日 21:33

19年 5月 1日記す。
 令和という時代が始まった訳だが、元号が変わるのは天皇の都合であって、時代の変化に即したという訳ではない。しかし、元号が変わる時に大きな時代の変化が偶然に起こるという事はある。偶然に意味はないが、偶然から意味を読み取る、何かのきっかけにする、という事はできる。ユング心理学でいう共時性である。
 昭和が終わるとすぐに、日本の大衆娯楽文化の巨人が二人相次いで死んだ。手塚治虫と美空ひばりである。手塚治虫が戦後日本の漫画の流れを確立したと言えるのに対して、美空ひばりは孤高の天才であったという違いは在るが、二人が大衆娯楽文化の中心にあった事は間違いなく、二人の死によって中心は失われた。
 失われたと言うと悪い事のようだが悪い事ばかりではなく、求心力がなくなったということは拡散力、つまり多様化が進むのである。弊害としては、中心を通って反対側へ行くという近道がなくなったので、分野を超えた相互交流が弱くなる。
 インターネットがそれに拍車をかけた。インターネットは誰もが広い情報に触れる事を可能にすると期待されたが、現実には、自分の好む情報のみを拾い出して他を無視する傾向を進め、結果として極端に偏った趣味や考えに依る視野狭窄を起こし、ナショナリズムなどを蔓延させた。
 令和にどんな偶然が伴うか、何かのきっかけに成るのか、楽しみな事である。

追記:結果としてはパンデミックがやって来た。

筒井康隆著『不良老人の文学論』2021年09月02日 22:12

19年 5月 2日読了。
 傑作選の発行に伴うインタビュー。別に知っている事ばかりだな、と思う一方、日本SF史の貴重な資料であるとも思う。小松、星、半村の話は聞きたくてももう遅いのである。光瀬も平井も今はない。それどころか、横順も、栗本薫も居ない。荒巻義雄の「メタSF全集」と柴野拓美の評論集は出たが、眉村卓と豊田有恒のこういうインタビューも今のうちにしておくべきではなかろうか。縁起でもない事言うようだが。
 『聖痕』でも『モナドの領域』でも「最後の長篇」と言っている事を指摘されて筒井「あと二、三回はいけるな」。

追記:この年11月、眉村も亡くなった。

スティーヴ・エリクソン著『きみを夢みて』2021年09月03日 21:43

19年 5月 4日読了。
 長編。自伝的要素を含むが、例に依って時空・虚実を超えた幻想もある。『Xのアーチ』に比べれば時空の歪みは少ないが、何が現実なのか判らなくなる効果はある。オバマの大統領当選が重要な要素なのだが、読んでいるうちに現実だったのどうか確信が持てなくなる。
 これも例に依って話は時系列的に進まず、幾つもの脇筋が並行的に入り乱れながら展開する。主筋は、エチオピアから養女を迎えた家族が、養女の実母を探す内に離散の危機に陥る、という物。これに、時空も虚実も超えて移動する一冊のペーパーバック版『ユリシーズ』や、養父と養女、デビッド・ボウイとロバート・ケネディの歌舞伎的因縁話が絡む。
 主人公家族は全員エキセントリックで興味深いが、俺には四歳の養女のシバのメンタリティが最も面白かった。生まれてすぐに実母に捨てられ、次に祖母に捨てられ、新たな家族に拾われてアメリカに遣って来るが、当然すぐには新しい家族を信じる事はできないし、自己を確立する事もできない。シバはラジオ電波を受信して音を発する特異体質だが、彼女の喪失が電波を呼び込むのかも知れない。
 アメリカの行き詰まりと主人公家族の行き詰まり、アメリカの希望と家族の希望が相互のメタファーとして語られ、養父もアメリカが良くなる事と家族が良くなる事をちょっと混乱したりする。一組の家族とアメリカの物語。
 これも例に依って意味の判らぬ文章が多い。何の比喩なのか判らないという以前に、文章の構造、主語と述語の関係とか修飾語と被修飾語の対応とか、「だから」と書いてあるのに何が「だから」なのか判らないという論理の不明などがある。二度読んで判らぬ部分は何となく雰囲気だけ把握して次に進む。エリクソンはいつもそうだ。俺の頭が悪いせいもあるだろうが、それで面白いのだから良いのである。

柴田元幸著『アメリカン・ナルシス メルヴィルからミルハウザーまで』2021年09月04日 21:46

19年 5月 6日読了。
 アメリカ文学論。タイトルに象徴されている通り、アメリカの自意識、見る自分と見られる自分の葛藤を中心に論ずる。例えば、『白鯨』の「エイハブがモビー・ディックに挑んだ闘いとは、水の中の『捉え得ぬ生の幻』を捉えようとする企てであった」(p.35)のに対し、「アッシャー家の崩壊」の「ロデリックは、自己の似姿が見えすぎることに慄え戦くナルシスなのだ」(p.35)といった具合。
 ここで、「捉え得ぬ生の幻」とか「自己の似姿」とか言っているのは、制御できないもう一人の自分のことで、無意識に近い。アメリカという歴史の浅い、言い換えれば無意識の弱い国、そして、歴史ではなく理念によって作られながら、建国の瞬間から先住民の虐殺と奴隷の抑圧という罪を背負った国に於いて、自分の無意識とどう向き合うかが、常にアメリカ文学の重要な主題の一つであった、というのが俺の読み取ったこと。
 「エイハブの内部の他者性を引き受ける身体がモビー・ディックであることはいうまでもない。(略)だがその他者性を生むのは自己の中の他者性であり、自己と自己自身の隔たりなのだ」(p.18)。
 「絶対的に自己自身であろうとすることは、自らの創造者であろうとすることにほかならない。そこでは神と人間との関係が、自己と自己自身の関係にそのまま移行している。だが神への反逆者というエイハブ像が示唆するように、神が人間によって復讐されるのだとすれば、自己もまた自己が作り出したものによって復讐されずにはいない」(p.20)。
 「私が私であることを証明しようとする試みが、逆に私が私でないことを証明してしまう。このパラドックスこそがエイハブである。(略)ひとりの狂人にすぎないエイハブがもしも英雄的であるとすれば、それは彼が自己意識のパラドックスを究極まで生きつくすからにほかならない。モビー・ディックに壮絶な闘いを挑んだエイハブは、渦巻きに飲み込まれついには水の中に消えていく。こうして『捉え得ぬ生の幻』を追って『泉に飛び込み溺れ死んだ』ナルシスの物語が完成するのだ」(p.22)。
 「現実は境界線を引くことによって成立する」と前置きした上で「ポオにおける恐怖と笑いは、ほとんどすべてこの『境界』の混乱から生じるといってよい」(p.25)。
 「ポオにおいてもっとも頻繁に現れる二つの主題を考えてみれば、そのことはいっそう明確になるだろう。(1)生きたままの埋葬(生/死の境界の混乱)。(2)分身の出現(自己/他者の境界の混乱)」(p.25)。
 「いうまでもなく自己意識とは自己の自己に対する距離の問題であり、自己が自己自身から隔たることである。そして、自己意識の発生と死の恐怖の発生はおそらく同時である。禁断の実を食べたアダムとイヴの物語はまさにそのことを象徴している。彼らは自らの裸体を恥じるようになる。つまり自分を一人の他者として眺める目、すなわち自意識を獲得するわけだ。だがそれと同時に彼らは、神によって死を与えられるのである。原罪の罰は自意識と死なのだ」(p.33)。
 消費社会における自己の構造「いいかえれば、モノが人間イメージであるのと同じように、人間もまたモノのイメージでしかなくなってしまう、ということである。主権はもはや人間の側にはない」(p.48)。
 ハックルベリー・フィンについて「自己自身であることの不可能性。この問題こそが、マーク・トウェインをはじめとするアメリカのリアリズム文学の核心に潜んでいる。(略)『白鯨』にせよ『グレート・ギャツビー』にせよ、アメリカ文学全体がこの主題とかかわってきたといっても過言ではないのではないか」(p.63)。
 「アメリカ人もまた、アメリカ人であるために、正の形であれ負の形であれヨーロッパという規範を必要としてきた。たとえば自由の国アメリカというイメージは、不自由の地ヨーロッパという考えを前提にしている。ハックとハックが抱えた他者の影は、新大陸と旧大陸の隠喩なのだ」(p.63)。
 「ジラールによれば、現代人の欲望はすべて他者の欲望の模倣である」(p.74)。
 「だがこの実現の試みは、もとより挫折に終わるほかない。なぜなら、対象と自己との隔たりこそが欲望を生むのであり、隔たりが消滅するとき、対象は自己にとっての価値を失ってしまうからだ」(p.75)。
 「つまり、自律の神話は二つの相矛盾する命令を発している。人は変わることを欲望しなくてはいけない、なぜなら人は自律を希求し自らの神とならなくてはいけないから。人は変わることを欲望してはいけない、なぜなら欲望を持つことは他者への依存のしるしであり自律を欠くしるしだから。『変われ/変わるな』というダブルバインドは、自我の神話の帰結にほかならないのである」(p.78)。
 「『シスター・キャリー』は一九〇〇年に出版された。一九世紀アメリカのリアリズム文学は、近代的自我の全否定とともに終わったのである」(p.78)。
 ネットで検索すると、論文調の前半が面白かったという人と、エッセイ調の後半が面白かったという人が居る。俺はその事が面白いよ。「筋が通りすぎてつまらない」いろんな人が居る。

村田沙耶香著『地球星人』2021年09月05日 21:47

19年 5月 7日読了。
 中編と呼ぶには長い感じ。小学校五年生の奈月は自分は魔法少女だと信じ、やがては宇宙人だったと信じるようになる。それは、母親からの虐待に耐えるための自己防衛の幻想だったのだ。従兄弟の由宇が「自分は宇宙人かも知れない」と言うのを聞いた事や、塾講師からの性的虐待によりそれは益々強化される。
 奈月は人間の社会は人間を再生産する「工場」だと思っていた。それは大人になっても変わらなかった。異星人であることは苦しく、奈月は早く「工場」に洗脳されて地球星人になってしまいたいと望んでいたが、同じ宇宙人の「夫」は、決して地球星人に同化すまいと誓っていた。
 地域の規範に馴染むことのできない男女が、そこから逃れようとする話、というと一つの類型だが、「都市の共同体的締めつけを逃れて田舎へ行く」という逆転が起こっている。普通は都市は否定的には孤独とか反自然を象徴する場所で、田舎こそが共同体の因習が支配する場所に成る筈なのだが、過疎化が進んだ現代では、田舎にこそ自由があるのである。特に都会育ちの奈月の夫は田舎こそ反地球星人的な場所と考え、イナゴやハチの子を食べる習俗に大喜びしたりする。
 三人の男女が「宇宙人としての自己同一性」を作り上げていく処は、痛々しくも馬鹿馬鹿しい。