養老孟司著『半分生きて、半分死んでいる』2021年06月04日 22:35

18年11月 7日読了。
 「もともとヒトは地球の生態系の一部である。お腹のなかには100兆の細菌が棲んでいる。地球の生態系からヒトだけ千切れて飛んで行っても意味がない。宇宙を考えるなら、自分を地球の一部分と見なくてはいけない。その意味では環境なんてない。自分と環境の間に切れ目はないからである」(p.21)。
 「日本の大学で教えないものがある。それは考える方法である」(p.25)。
 「自然を感性で捉えれば風流になり、理性で捉えれば学問になる」(p.44)。「自然物を認識するというと、『それで何がわかりますか』と認識の内容を訊く人がある。認識は内容ではない。行為である。もっというなら、生き方である。世界をどう見るか、それで生き方が違ってくる。これを哲学と呼ぶ人もある」(p.44)。
 「ここで古くからの問題が浮上する。手段と目的というあれ。コンピュータはヒトの手段だったはずだが、どうもだんだん目的化してきたらしい」(p.49)。
 「いまの人は統計を持ち出すと黙るけれども、私は統計を信じていない。統計には統計の論理があって、それはべつに万事を説明するものではない。(略)さらに統計を使いこなすのは、じつは容易なことではない。わかりやすいというので、すぐにグラフにするが、わかりやすいというのは、自分の頭に入りやすいということで、じゃあ世界は自分の頭に入るようにできているかと反省したら、そんなはずはない、とわかるはずである」(p.90)。
 「世界を数字で測ればわかりやすい。だからといって、世界自体がわかりやすくなったわけではない」(p.96)。
 「私はISをアラブの古い社会システムと、多国籍企業に代表される新しいシステムの相克だと考えている。欧州の古いシステムにも新しいシステムにも参加できなかった若者がISに参加して、テロリスト候補になる」(p.122)。
 「人は何かを『片付けたい』と思うのだが、たぶんそれは死ぬまで片付かない。それが歴史であり、生きているということなのであろう」(p.155)。
 「しかしそもそも理性的に神秘体験を説明することはできないはずである。なぜなら神秘体験だからである。説明できるなら神秘ではない」(p.197)。
 保育園の待機児童問題について「切って捨てられているもの、それは何か。子ども自身の、子どもとしての人生であろう。結局は万事、親の都合だからである。子どもに投票権はない。子どもは大人になることを前提として扱われている。そういう存在でしかない。世間から子ども自体としての価値が消えた。そういってもいい。だからそれを補っているのがペットである」(p.214)。
 「人間の性質の多くをノイズと見なし、そうでない部分を情報として処理する。そういう世界に、現実の人間としての未来はない」(p.218)。

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