宇野邦一著『非有機的生』 ― 2026年09月06日 23:42
「非有機的生」をめぐる哲学的考察。「非有機」は著者独特の言葉。「無機」は鉱物、「有機」は生物、「非有機」は知性に対応するらしい、ということがぼんやり判るまでに何十頁もかかった。俺の頭が悪いせいもあるだろうが、哲学は言葉遣いが独特だよね。思考、芸術そして政治において、有機性と非有機性がどのように機能しているか、というような話。
「無機→有機→非有機」と進化するという話でもなければ、単純に有機と非有機が対立し葛藤するという話でもない。有機性と非有機性そして無機性が循環し、浸透し、融合している状況を分析し解釈している。状況を把握するばかりで、どういう状態が正しいとか、望ましいとかいうところへ話が収束することはない。結論を出すことを回避しているのではないかとすら思える。
思考や芸術、文学の話から、やがて「生政治」という主題が現れてくる。生政治というのは「権力が市民の生死を管理しようとする」というようなことらしい。
「だかららこそ〈非有機的生〉を考えることは、権力や法の水準を超える広い平面で、いかに「生政治」に対抗するかという問いにつながる」(p.5)。
「一九二〇年代にソ連の生化学者ウラジミール・ヴェルナツキーは「生物圏(biosphere)」について語り、無機的な物質そして元素そのものが遊動的であり、偶然的におのれを構成しては再構成し、あくまで一時的な「地層」を構成すると考えた。無機的な物質もそれ自体、生命に似た過程を誘導するのであって、無機性・有機性の区別を超えるはてしない組織網として「生物圏」が構成されると言う」(p.14)。
「決してこの世界に「来たらない」書物は、ただ「来たるべき書物」として待機している。この待機の時間は無限にひきのばされる。しかし、この待機から別の時間が姿をあらわす」(p.186)。
「習慣と化した混乱は、混乱と感じられない」(p.215)。
マルクス『経済学批判序説』からの引用「対象としての芸術は----他のすべての生産物と同じように----芸術的感覚をもち、美を享受する能力をもった大衆を創り出す。生産は、それゆえ、主体のための対象を生産するのみではなく、対象のための主体も生産する」(p.238)。
「無機→有機→非有機」と進化するという話でもなければ、単純に有機と非有機が対立し葛藤するという話でもない。有機性と非有機性そして無機性が循環し、浸透し、融合している状況を分析し解釈している。状況を把握するばかりで、どういう状態が正しいとか、望ましいとかいうところへ話が収束することはない。結論を出すことを回避しているのではないかとすら思える。
思考や芸術、文学の話から、やがて「生政治」という主題が現れてくる。生政治というのは「権力が市民の生死を管理しようとする」というようなことらしい。
「だかららこそ〈非有機的生〉を考えることは、権力や法の水準を超える広い平面で、いかに「生政治」に対抗するかという問いにつながる」(p.5)。
「一九二〇年代にソ連の生化学者ウラジミール・ヴェルナツキーは「生物圏(biosphere)」について語り、無機的な物質そして元素そのものが遊動的であり、偶然的におのれを構成しては再構成し、あくまで一時的な「地層」を構成すると考えた。無機的な物質もそれ自体、生命に似た過程を誘導するのであって、無機性・有機性の区別を超えるはてしない組織網として「生物圏」が構成されると言う」(p.14)。
「決してこの世界に「来たらない」書物は、ただ「来たるべき書物」として待機している。この待機の時間は無限にひきのばされる。しかし、この待機から別の時間が姿をあらわす」(p.186)。
「習慣と化した混乱は、混乱と感じられない」(p.215)。
マルクス『経済学批判序説』からの引用「対象としての芸術は----他のすべての生産物と同じように----芸術的感覚をもち、美を享受する能力をもった大衆を創り出す。生産は、それゆえ、主体のための対象を生産するのみではなく、対象のための主体も生産する」(p.238)。
エドワード・ブライアント著『シナバー 辰砂都市』 ― 2026年08月25日 23:19
連作短編集。遠未来の都市シナバー。海と砂漠に囲まれた閉塞的な都市である。この惑星は地球と呼ばれているが、太陽系の地球なのかどうかはよく判らない。都市の外部と連絡はなく、他に人の住む場所があるのかどうかも判らない。遠未来の超技術で、人々は不老不死となり、機械知性による行き届いた管理を享受している。一方、爛熟と頽廃の気配も色濃く、外部との連絡がないことも相まって、行き詰まり感や先細り感も満ちている。
J・G・バラードの「ヴァーミリオン・サンズ」の影響のもとに書かれているそうだが、俺の趣味だと、バラードに比べて「絶望が足りない」感じがする。もちろん、言い換えれば「希望(救い)がある」ということだが。
J・G・バラードの「ヴァーミリオン・サンズ」の影響のもとに書かれているそうだが、俺の趣味だと、バラードに比べて「絶望が足りない」感じがする。もちろん、言い換えれば「希望(救い)がある」ということだが。
上田閑照著『私とは何か』 ― 2026年08月18日 00:17
「私」と言うとき、それはどのような事態か、という哲学的には古くて新しい問題。著者の中心となる主張は次のようなものである。私という事態には、内に向かって閉じていく方向と、「汝」という他者に向かって開いていく方向がある。両者は矛盾しているので、「閉じていく私」と「開いていく私」の間には否定が働いている。この「私は、私ならずして、私である」という事態こそが私ということである。
そうして、閉じる私と開く私ということを中心にして、「私」に関する様々な問題を考察する。取り上げる問題は、デカルトのコギトや、仏教の無我、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、夏目漱石の則天去私などなど。全体として、「閉じていく私」を否定的に、「開いていく私」を肯定的に扱っているが、これは、現代では閉じる方向が強すぎる弊害が多く現れているからで、本来は両者がバランスよく、交互に循環するような運動が健全な「私」ということのようである。
話の筋道はわかるのだが、俺には「腑に落ちる」感じにはならなかった。「閉じていく私」と「開いていく私」の間に「否定」という強い対立の言葉を使っているのが、何となく飲み込みにくいのである。例えば、遺伝という言葉は子が親に似るということで、進化という言葉は子が親に似ないということである。方向は逆だが「進化と遺伝は相互に否定し合っている」とは言わないであろう。「私」の問題も、無理にそんな強い葛藤を持ち込まなくても、考えられんじゃないの、という感じがある。この出だしのところでしっくりこないままなので、最後まで「話の筋道はわかるけど、腑には落ちない」という感じのままであった。
好きなエピソードがあった。
「一例を挙げれば、良寛がある家に泊まって数日過ごしたときの、その家の主の言葉が残されている。良寛は別に何を解き、何をしたというのではない。「師更に内外の経文を解き善を進むるにもあらず、或いは廚下につきて火を焚き、或いは堂に坐禅す。その話詩文にわたらず、道義に及ばず、優遊として名状すべきなし」であった。良寛がその家に居るというだけで、一家の人々は「おのずから和睦し、脇家に充ち、帰り去ると雖も数日のうち人おのずから和す」。このような経験は過ぎ去ってしまうことがない。いったん経験された一家の和気は、その後もリアルな理想として一家のうちに事あるごとに導きとなってゆく。こうしたことは実際にあることである」(p.164)。
よくあると言えばよくあるような話なのだが、好きである。荘子にありそうな話。
そうして、閉じる私と開く私ということを中心にして、「私」に関する様々な問題を考察する。取り上げる問題は、デカルトのコギトや、仏教の無我、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、夏目漱石の則天去私などなど。全体として、「閉じていく私」を否定的に、「開いていく私」を肯定的に扱っているが、これは、現代では閉じる方向が強すぎる弊害が多く現れているからで、本来は両者がバランスよく、交互に循環するような運動が健全な「私」ということのようである。
話の筋道はわかるのだが、俺には「腑に落ちる」感じにはならなかった。「閉じていく私」と「開いていく私」の間に「否定」という強い対立の言葉を使っているのが、何となく飲み込みにくいのである。例えば、遺伝という言葉は子が親に似るということで、進化という言葉は子が親に似ないということである。方向は逆だが「進化と遺伝は相互に否定し合っている」とは言わないであろう。「私」の問題も、無理にそんな強い葛藤を持ち込まなくても、考えられんじゃないの、という感じがある。この出だしのところでしっくりこないままなので、最後まで「話の筋道はわかるけど、腑には落ちない」という感じのままであった。
好きなエピソードがあった。
「一例を挙げれば、良寛がある家に泊まって数日過ごしたときの、その家の主の言葉が残されている。良寛は別に何を解き、何をしたというのではない。「師更に内外の経文を解き善を進むるにもあらず、或いは廚下につきて火を焚き、或いは堂に坐禅す。その話詩文にわたらず、道義に及ばず、優遊として名状すべきなし」であった。良寛がその家に居るというだけで、一家の人々は「おのずから和睦し、脇家に充ち、帰り去ると雖も数日のうち人おのずから和す」。このような経験は過ぎ去ってしまうことがない。いったん経験された一家の和気は、その後もリアルな理想として一家のうちに事あるごとに導きとなってゆく。こうしたことは実際にあることである」(p.164)。
よくあると言えばよくあるような話なのだが、好きである。荘子にありそうな話。
ペン・シェパード著『非在の街』 ― 2026年08月08日 01:58
長編。創元海外SF叢書の一冊だし、カバー裏の紹介文にもはっきりと幻想小説と書いてある。しかし、物語は完全なミステリーの形式で始まる。図書館における密室殺人事件。中盤まで神秘的なことは起こっていないように、読者には見える。中盤近くなって突然幻想色が強くなる。半村良の手法である。まあ、著者は半村良読んでないだろうけど。
一般に地図は現実を映したものだが「地図が現実を創る」というのが本書の中心主題。現実には存在しない場所が描きこまれた地図があり、それに従っていくとその場所に入っていくことができるのである。その特別な地図の奪い合いが後半の物語となる。「地図が現実を創る」という着想のすばらしさ。
邦題は何やら文学的な感じだが、エンターテインメントなので、あまり思弁的には深くないのだが、俺は勝手に「現実世界自体が何かを模した地図のようなものではないか」とか「地図が現実を創るのなら、この世界全体を創る元になる、「世界原本地図」のごときものがどこかにあるのではないか」とか、かってに妄想を膨らませて楽しんだ。
一般に地図は現実を映したものだが「地図が現実を創る」というのが本書の中心主題。現実には存在しない場所が描きこまれた地図があり、それに従っていくとその場所に入っていくことができるのである。その特別な地図の奪い合いが後半の物語となる。「地図が現実を創る」という着想のすばらしさ。
邦題は何やら文学的な感じだが、エンターテインメントなので、あまり思弁的には深くないのだが、俺は勝手に「現実世界自体が何かを模した地図のようなものではないか」とか「地図が現実を創るのなら、この世界全体を創る元になる、「世界原本地図」のごときものがどこかにあるのではないか」とか、かってに妄想を膨らませて楽しんだ。
サラ・ブルックス著『侵蝕列車』 ― 2026年08月03日 23:15
長編。設定としては歴史改変SF。十七世紀、シベリアに未知の生命体が侵入し、独自の生態系を形成する。この新たな自然に触れたものは心身に異常をきたす。この一帯は〈荒れ地〉と呼ばれ、壁を築いて封鎖、隔離されている。この危険地帯を貫いて、欧州と中国を結ぶ鉄道が建設され、往復を開始する。会社は列車内は充分に隔離され、安全だと主張したが、やがて事故が起こる。会社は、事故の原因を窓ガラスを作った技術者に押し付けた。事故後、十か月の中断の後、シベリア横断列車の運行が再開される。北京からモスクワまでのその旅が、この物語の内容である。
父の汚名をそそごうとするガラス職人の娘、〈荒れ地〉に天地創造の秘密があると考える博物学者、十六年前に列車の中で生まれた少女「列車の子」など、多彩な人物が入り乱れながら、列車は突き進む。
序盤は、列車の内部を知り尽くした列車の子の日常、会社の欺瞞と隠蔽、博物学者の企みなどが物語の中心となる。しかし、列車の子が無賃乗客である謎の少女と出会ってから、列車は徐々に〈荒れ地〉に浸食されていく。
人間の世界に侵入してくる不条理な異質の領域というのは何とも魅力のある設定である。解説の牧眞司は、類似の設定の作品としてストルガツキー兄弟の『ストーカー』と並んでジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』を挙げていて嬉しい。ヴァンダミアの「サザーン・リーチ三部作」は俺も大好きなのだ。欲を言えば、〈荒れ地〉の幻想と不条理をもっとたっぷり描写してほしかった。
父の汚名をそそごうとするガラス職人の娘、〈荒れ地〉に天地創造の秘密があると考える博物学者、十六年前に列車の中で生まれた少女「列車の子」など、多彩な人物が入り乱れながら、列車は突き進む。
序盤は、列車の内部を知り尽くした列車の子の日常、会社の欺瞞と隠蔽、博物学者の企みなどが物語の中心となる。しかし、列車の子が無賃乗客である謎の少女と出会ってから、列車は徐々に〈荒れ地〉に浸食されていく。
人間の世界に侵入してくる不条理な異質の領域というのは何とも魅力のある設定である。解説の牧眞司は、類似の設定の作品としてストルガツキー兄弟の『ストーカー』と並んでジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』を挙げていて嬉しい。ヴァンダミアの「サザーン・リーチ三部作」は俺も大好きなのだ。欲を言えば、〈荒れ地〉の幻想と不条理をもっとたっぷり描写してほしかった。
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