『梅原猛著作集4 地獄の思想』 ― 2026年10月13日 00:11

 著者の最初の書下ろし作品『地獄の思想』と日本古典文学についてのエッセイを収録。著者は古代からの日本の思想には三つの原理が流れているという仮説を立てる。それは、生命(いのち)の思想、心の思想、地獄の思想の三つである。そして、神道→密教→日蓮という燃える生命を賛美する生の肯定の哲学の流れと、釈迦→天台智顗→源信→親鸞という深く人間の苦悩を内省する生の否定の哲学の流れを見る。
 ここでいう地獄とは、死後におちる責め苦の世界のことではなく、生きる人間の煩悩による苦悩、あるいは乱世などの世界の不条理が無垢の民にもたらす苦悩を指す。著者はここでは、地獄の思想の流れを中心に、それに対する生命の思想についても解説する。
 ここでは詳細されていないが、心の思想が両者をつなぐものあるいは包むものと想像される。何となく弁証法を連想するし、河合速雄の「日本人の中空構造」も連想される。
 「デューイ(一八五九-一九五二)はいう。欲望が満足されないとき、かつての人間たちは自己のほうを変えることのみを工夫したが、しかし今や環境のほうを、世界のほうを変えるべきではないか、そうしてその世界を変える知恵こそ科学文明の知恵ではないかと。まさに釈迦の知恵は、このような科学文明の知恵と正反対の知恵であるようにみえる」(p.58)。
 「しかし、今、世界が人間どもの激しい欲望で戦争や動乱の苦しみにあえぐとき、はたしてただ人間の欲望をそのままに肯定し、欲望のままに争い、その争いにより、動乱の解決をはかるということでよいのであろうか。無反省な西洋の権力意志によって世界は統一されたが、その権力意志が歴史の悲劇をまねいている現在である。深く、人間そのものの欲望を考え直すべき時代ではないか。人間の欲望そのものに深い反省を加えずに世界の地獄化を救うことができるだろうか」(p.58)。
 天台智顗の思想。「人生は空しく、仮である。けれど否定に執する愚か者、もういちどこの人生に帰ってこい。空と知りつつ、仮と知りつつ、この人生に生きよ。またなおこの人生に安定してはいけない。絶えずこの人生を空と仮と観ぜよ。空も仮も知らず、人生を中とのみ考える人間がある。よくいえば現実主義者、悪くいえば俗物である。人生を空しいと知って、空しいという思想に安住する人がある。良い意味の批判的インテリ、悪い意味のニヒリストである。人生は仮と知って、仮の思想に安住する人がいる。良い意味の理想主義者、悪い意味の空想家である。智顗はこのような一つの諦に偏してはいけないという。たえず三つの諦をもて。人生は空しさ、仮なるものとして、しかもこの人生にしっかり足をつけて生きたらどうだ」(p.71)。
 「彼(芭蕉)は、人間の比喩として自然を見た」(p.350)。
 「集団性と孤独性、生と死、笑いと悲しみ、叙事詩的なものと抒情詩的なもの、二つの矛盾するものが、芭蕉の場合、彼の巨大な人格の中で見事に統一されていたのである」(p.397)。

『梅原猛著作集2 仏像・羅漢』 ― 2026年09月27日 01:16

 著者の、仏像を中心とする日本の仏教美術に関する著作、『仏像』『仏像に想う』『羅漢』の三冊をまとめたもの。
 『仏像』では、仏像を、如来、菩薩、明王、天部の四種類に分け、それぞれ代表的なものや特徴的なものをいくつか選んで、鑑賞、評価、分析している。その方法として特徴的なのは、それまでの仏像評論が、感覚や印象による賛美か、形式論に偏っていたのに対して、著者は「その形が現わしている仏教思想やつくられた当時の信仰の在り方」などを探ろうとした点である。著者はそれを仏像の「心」と呼んでいる。そして、薬師如来を現世利益の仏、阿弥陀如来を彼岸救済の仏などと分析していく。
 面白いのは『仏像』の最後の章で、この分析を基に各仏を図上に配置した、新たな曼荼羅を作っているところである。釈迦を倫理的人間的、大日を形而上学的宇宙的として対照的な位置に置き、現世利益の薬師と彼岸救済の阿弥陀をそれに直交するように配置して関係を図示し体系化していく。
 さらに、一つの体系を作って結論とするのではなく、それぞれの仏の志向が現在的か未来的か、実際的か観念的かという軸で別の曼荼羅を作り、またさらに、男性的な不動像と女性的な観音像という軸でまた別の曼荼羅を作ってみせる。つまり、一つの体系が結論であり正解であるということではなく、視点によってさらにさまざまな軸で体系化されるさまざまな曼荼羅の可能性が開かれているのである。新たな観点を主張しながら、閉じることなく開いていくところがなんとも素晴らしい。
 それに比べると、『仏像に想う』と『羅漢』は、個々の仏像や美術の鑑賞分析で、大きな体系化は見られない。しかし、もちろんその内容は著者独特の創造と空想にによる飛躍に充ちて、十分に面白い。
 例えば、十六羅漢の一人、那伽犀那尊者について次のようにある。「私は彼が笑っているのを見ると、天地そのものが笑っているように見える。天地が自らを祝福しているのだ。天地が、存在のすべてに、イエス、イエスといい続けているようである。天地は多くのものを生みだす。それはすばらしいことではないか。人間という天地の創造物、それはすばらしいことではないか、そのすばらしさを、彼は天地に代わって祝福しているようである。私は彼の笑いを見るとき、人間というものはいいものだなと思う。天地よ、万歳、人間よ、さちあれ。私には、彼の笑いのなかには形而上学的な何かがあるように思われる」(p.322)。

スタニスワフ・レム著『電脳の歌』 ― 2026年09月12日 23:21

 連作短編集。人類が滅び去った遠未来、ロボットたちが宇宙で暮らしている。ほとんど万能の建造師トルルルとクラパウツィウスの活躍を描く。建造師というのは、何でも創り出してしまう、SFの伝統でいえばマッドサイエンティストのごとき存在である。全体に民話的な構成になっていて、封建的な独裁王に無理難題を出されたトルルルとクラパウツィウスが知恵を絞って対処する、というものが多い。民話的なSFというと、日本では即座に星新一が連想されるが、星新一のような皮肉もあるのだが、むしろナンセンスの印象が強い。解説にあるように、執筆された時代、ソ連支配下のポーランドという状況の影響もあるのかもしれない。
 解説では、科学技術的な予見性や、言語的な遊びについて称賛している。特に、ウィリアム・ギブスンに十年以上も先んじて「サイバー」という言葉を使い、仮想空間や、コンピュータの行き着く先に今日の生成AIのようなものを予見していたことは特筆に値するだろう。しかし、俺が最も面白かったのは、そのナンセンス性である。次に引用する文章などは、ナンセンスを批評するナンセンス、言ってみればメタナンセンスになっていて素晴らしい。
 「トルルルとクラパウツィウスは、ネアンティーク高等専門学校で四十七年間、竜一般理論を講じた偉大なるケレブロン・エムタドラタの教え子であった。ご存じのとおり、竜なんてものは存在しない。こうした素朴な事実確認は、がさつな知性にとっては十分かもしれないが、科学にとってはそうではない、なぜならネアンティーク高等専門学校は存在するものなど一切取り扱わないからである。存在の凡庸さはとうの昔に証明されており、これ以上ひとことだってそれに捧げる価値があるだろうか。かくて天才ケレブロンは厳密な手法でこの問題に取り組み、零、虚、負という三種類の竜を発見した。上述のように、これらはいずれも存在しないが、しかし各種類がまったく異なる方法で存在しないのである」(p.108)。

宇野邦一著『非有機的生』 ― 2026年09月06日 23:42

 「非有機的生」をめぐる哲学的考察。「非有機」は著者独特の言葉。「無機」は鉱物、「有機」は生物、「非有機」は知性に対応するらしい、ということがぼんやり判るまでに何十頁もかかった。俺の頭が悪いせいもあるだろうが、哲学は言葉遣いが独特だよね。思考、芸術そして政治において、有機性と非有機性がどのように機能しているか、というような話。
 「無機→有機→非有機」と進化するという話でもなければ、単純に有機と非有機が対立し葛藤するという話でもない。有機性と非有機性そして無機性が循環し、浸透し、融合している状況を分析し解釈している。状況を把握するばかりで、どういう状態が正しいとか、望ましいとかいうところへ話が収束することはない。結論を出すことを回避しているのではないかとすら思える。
 思考や芸術、文学の話から、やがて「生政治」という主題が現れてくる。生政治というのは「権力が市民の生死を管理しようとする」というようなことらしい。
 「だかららこそ〈非有機的生〉を考えることは、権力や法の水準を超える広い平面で、いかに「生政治」に対抗するかという問いにつながる」(p.5)。
 「一九二〇年代にソ連の生化学者ウラジミール・ヴェルナツキーは「生物圏(biosphere)」について語り、無機的な物質そして元素そのものが遊動的であり、偶然的におのれを構成しては再構成し、あくまで一時的な「地層」を構成すると考えた。無機的な物質もそれ自体、生命に似た過程を誘導するのであって、無機性・有機性の区別を超えるはてしない組織網として「生物圏」が構成されると言う」(p.14)。
 「決してこの世界に「来たらない」書物は、ただ「来たるべき書物」として待機している。この待機の時間は無限にひきのばされる。しかし、この待機から別の時間が姿をあらわす」(p.186)。
 「習慣と化した混乱は、混乱と感じられない」(p.215)。
 マルクス『経済学批判序説』からの引用「対象としての芸術は----他のすべての生産物と同じように----芸術的感覚をもち、美を享受する能力をもった大衆を創り出す。生産は、それゆえ、主体のための対象を生産するのみではなく、対象のための主体も生産する」(p.238)。

エドワード・ブライアント著『シナバー 辰砂都市』 ― 2026年08月25日 23:19

 連作短編集。遠未来の都市シナバー。海と砂漠に囲まれた閉塞的な都市である。この惑星は地球と呼ばれているが、太陽系の地球なのかどうかはよく判らない。都市の外部と連絡はなく、他に人の住む場所があるのかどうかも判らない。遠未来の超技術で、人々は不老不死となり、機械知性による行き届いた管理を享受している。一方、爛熟と頽廃の気配も色濃く、外部との連絡がないことも相まって、行き詰まり感や先細り感も満ちている。
 J・G・バラードの「ヴァーミリオン・サンズ」の影響のもとに書かれているそうだが、俺の趣味だと、バラードに比べて「絶望が足りない」感じがする。もちろん、言い換えれば「希望(救い)がある」ということだが。