上田閑照著『私とは何か』 ― 2026年08月18日 00:17
「私」と言うとき、それはどのような事態か、という哲学的には古くて新しい問題。著者の中心となる主張は次のようなものである。私という事態には、内に向かって閉じていく方向と、「汝」という他者に向かって開いていく方向がある。両者は矛盾しているので、「閉じていく私」と「開いていく私」の間には否定が働いている。この「私は、私ならずして、私である」という事態こそが私ということである。
そうして、閉じる私と開く私ということを中心にして、「私」に関する様々な問題を考察する。取り上げる問題は、デカルトのコギトや、仏教の無我、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、夏目漱石の則天去私などなど。全体として、「閉じていく私」を否定的に、「開いていく私」を肯定的に扱っているが、これは、現代では閉じる方向が強すぎる弊害が多く現れているからで、本来は両者がバランスよく、交互に循環するような運動が健全な「私」ということのようである。
話の筋道はわかるのだが、俺には「腑に落ちる」感じにはならなかった。「閉じていく私」と「開いていく私」の間に「否定」という強い対立の言葉を使っているのが、何となく飲み込みにくいのである。例えば、遺伝という言葉は子が親に似るということで、進化という言葉は子が親に似ないということである。方向は逆だが「進化と遺伝は相互に否定し合っている」とは言わないであろう。「私」の問題も、無理にそんな強い葛藤を持ち込まなくても、考えられんじゃないの、という感じがある。この出だしのところでしっくりこないままなので、最後まで「話の筋道はわかるけど、腑には落ちない」という感じのままであった。
好きなエピソードがあった。
「一例を挙げれば、良寛がある家に泊まって数日過ごしたときの、その家の主の言葉が残されている。良寛は別に何を解き、何をしたというのではない。「師更に内外の経文を解き善を進むるにもあらず、或いは廚下につきて火を焚き、或いは堂に坐禅す。その話詩文にわたらず、道義に及ばず、優遊として名状すべきなし」であった。良寛がその家に居るというだけで、一家の人々は「おのずから和睦し、脇家に充ち、帰り去ると雖も数日のうち人おのずから和す」。このような経験は過ぎ去ってしまうことがない。いったん経験された一家の和気は、その後もリアルな理想として一家のうちに事あるごとに導きとなってゆく。こうしたことは実際にあることである」(p.164)。
よくあると言えばよくあるような話なのだが、好きである。荘子にありそうな話。
そうして、閉じる私と開く私ということを中心にして、「私」に関する様々な問題を考察する。取り上げる問題は、デカルトのコギトや、仏教の無我、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、夏目漱石の則天去私などなど。全体として、「閉じていく私」を否定的に、「開いていく私」を肯定的に扱っているが、これは、現代では閉じる方向が強すぎる弊害が多く現れているからで、本来は両者がバランスよく、交互に循環するような運動が健全な「私」ということのようである。
話の筋道はわかるのだが、俺には「腑に落ちる」感じにはならなかった。「閉じていく私」と「開いていく私」の間に「否定」という強い対立の言葉を使っているのが、何となく飲み込みにくいのである。例えば、遺伝という言葉は子が親に似るということで、進化という言葉は子が親に似ないということである。方向は逆だが「進化と遺伝は相互に否定し合っている」とは言わないであろう。「私」の問題も、無理にそんな強い葛藤を持ち込まなくても、考えられんじゃないの、という感じがある。この出だしのところでしっくりこないままなので、最後まで「話の筋道はわかるけど、腑には落ちない」という感じのままであった。
好きなエピソードがあった。
「一例を挙げれば、良寛がある家に泊まって数日過ごしたときの、その家の主の言葉が残されている。良寛は別に何を解き、何をしたというのではない。「師更に内外の経文を解き善を進むるにもあらず、或いは廚下につきて火を焚き、或いは堂に坐禅す。その話詩文にわたらず、道義に及ばず、優遊として名状すべきなし」であった。良寛がその家に居るというだけで、一家の人々は「おのずから和睦し、脇家に充ち、帰り去ると雖も数日のうち人おのずから和す」。このような経験は過ぎ去ってしまうことがない。いったん経験された一家の和気は、その後もリアルな理想として一家のうちに事あるごとに導きとなってゆく。こうしたことは実際にあることである」(p.164)。
よくあると言えばよくあるような話なのだが、好きである。荘子にありそうな話。
ペン・シェパード著『非在の街』 ― 2026年08月08日 01:58
長編。創元海外SF叢書の一冊だし、カバー裏の紹介文にもはっきりと幻想小説と書いてある。しかし、物語は完全なミステリーの形式で始まる。図書館における密室殺人事件。中盤まで神秘的なことは起こっていないように、読者には見える。中盤近くなって突然幻想色が強くなる。半村良の手法である。まあ、著者は半村良読んでないだろうけど。
一般に地図は現実を映したものだが「地図が現実を創る」というのが本書の中心主題。現実には存在しない場所が描きこまれた地図があり、それに従っていくとその場所に入っていくことができるのである。その特別な地図の奪い合いが後半の物語となる。「地図が現実を創る」という着想のすばらしさ。
邦題は何やら文学的な感じだが、エンターテインメントなので、あまり思弁的には深くないのだが、俺は勝手に「現実世界自体が何かを模した地図のようなものではないか」とか「地図が現実を創るのなら、この世界全体を創る元になる、「世界原本地図」のごときものがどこかにあるのではないか」とか、かってに妄想を膨らませて楽しんだ。
一般に地図は現実を映したものだが「地図が現実を創る」というのが本書の中心主題。現実には存在しない場所が描きこまれた地図があり、それに従っていくとその場所に入っていくことができるのである。その特別な地図の奪い合いが後半の物語となる。「地図が現実を創る」という着想のすばらしさ。
邦題は何やら文学的な感じだが、エンターテインメントなので、あまり思弁的には深くないのだが、俺は勝手に「現実世界自体が何かを模した地図のようなものではないか」とか「地図が現実を創るのなら、この世界全体を創る元になる、「世界原本地図」のごときものがどこかにあるのではないか」とか、かってに妄想を膨らませて楽しんだ。
サラ・ブルックス著『侵蝕列車』 ― 2026年08月03日 23:15
長編。設定としては歴史改変SF。十七世紀、シベリアに未知の生命体が侵入し、独自の生態系を形成する。この新たな自然に触れたものは心身に異常をきたす。この一帯は〈荒れ地〉と呼ばれ、壁を築いて封鎖、隔離されている。この危険地帯を貫いて、欧州と中国を結ぶ鉄道が建設され、往復を開始する。会社は列車内は充分に隔離され、安全だと主張したが、やがて事故が起こる。会社は、事故の原因を窓ガラスを作った技術者に押し付けた。事故後、十か月の中断の後、シベリア横断列車の運行が再開される。北京からモスクワまでのその旅が、この物語の内容である。
父の汚名をそそごうとするガラス職人の娘、〈荒れ地〉に天地創造の秘密があると考える博物学者、十六年前に列車の中で生まれた少女「列車の子」など、多彩な人物が入り乱れながら、列車は突き進む。
序盤は、列車の内部を知り尽くした列車の子の日常、会社の欺瞞と隠蔽、博物学者の企みなどが物語の中心となる。しかし、列車の子が無賃乗客である謎の少女と出会ってから、列車は徐々に〈荒れ地〉に浸食されていく。
人間の世界に侵入してくる不条理な異質の領域というのは何とも魅力のある設定である。解説の牧眞司は、類似の設定の作品としてストルガツキー兄弟の『ストーカー』と並んでジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』を挙げていて嬉しい。ヴァンダミアの「サザーン・リーチ三部作」は俺も大好きなのだ。欲を言えば、〈荒れ地〉の幻想と不条理をもっとたっぷり描写してほしかった。
父の汚名をそそごうとするガラス職人の娘、〈荒れ地〉に天地創造の秘密があると考える博物学者、十六年前に列車の中で生まれた少女「列車の子」など、多彩な人物が入り乱れながら、列車は突き進む。
序盤は、列車の内部を知り尽くした列車の子の日常、会社の欺瞞と隠蔽、博物学者の企みなどが物語の中心となる。しかし、列車の子が無賃乗客である謎の少女と出会ってから、列車は徐々に〈荒れ地〉に浸食されていく。
人間の世界に侵入してくる不条理な異質の領域というのは何とも魅力のある設定である。解説の牧眞司は、類似の設定の作品としてストルガツキー兄弟の『ストーカー』と並んでジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』を挙げていて嬉しい。ヴァンダミアの「サザーン・リーチ三部作」は俺も大好きなのだ。欲を言えば、〈荒れ地〉の幻想と不条理をもっとたっぷり描写してほしかった。
アレステア・レナルズ著『反転領域』 ― 2026年07月10日 21:58
長編。探検隊を乗せた船の航海が、船医のサイラスの視点で語られる、というエピソードが、細部を変えながら繰り返される。最初は帆船だったその船「デメテル号」が、次のエピソードでは蒸気船となり、次は飛行船、ついには宇宙船となる。どうやら、現実を直視したくないサイラスの逃避的妄想が語られているらしい。しかし、サイラスを現実に連れ戻すために現実世界からの侵入者がやってきて妄想は破綻するのだが、そのたびにサイラスは新たな妄想を捜索して逃げ込んでしまう。半村良の短編「夢の底から来た男」と同じ構造である。
現実と虚構が逆転するところが読みどころの一つだが、正しい現実が一つだけあるのではなく、「全部虚構」あるいは「全部現実」という書き方もあったのではないか。純文学的だが、エンターテインメントとしてやれたら面白い。
現実と虚構が逆転するところが読みどころの一つだが、正しい現実が一つだけあるのではなく、「全部虚構」あるいは「全部現実」という書き方もあったのではないか。純文学的だが、エンターテインメントとしてやれたら面白い。
佐藤陽祐監修『世界と人間を深く理解するための 哲学の教科書』 ― 2026年06月27日 23:13
哲学の解説書。哲学の歴史を、古代、中世、ルネサンス期、近代、19世紀、20世紀、21世紀に大まかに分け、それぞれを主題別に、20世紀であれば、実存主義、現象学、構造主義……と分けて解説している。
どうも俺の頭の中で「哲学の全体像」というものが焦点を結んでいないところがあって、この手のものの新刊があると手に取るのだが、今回もやはりすっきりとした気分にはならなかった。実態がすっきりしていないのならそれで合っているのかもしれぬが。
今回は、ハンナ・アーレントの「なぜ普通の人が「悪」に加担してしまうのか」という問いが気になった。俺が最近考えていることと関係するからである。同じように「なぜ普通の人が「善」に加担しうるのか」とも問えるはずである。
「ほかの学問が具体的なテーマに対して答えを明らかにしていくのに対し、哲学は「問い」を深めていく営みです」(p.12)。
「長い歴史の中で哲学は、探求すべきテーマをいくつかの柱に整理してきました。大きく分けると形而上学(存在論)、倫理学、認識論の三つです」(p.13)。
どうも俺の頭の中で「哲学の全体像」というものが焦点を結んでいないところがあって、この手のものの新刊があると手に取るのだが、今回もやはりすっきりとした気分にはならなかった。実態がすっきりしていないのならそれで合っているのかもしれぬが。
今回は、ハンナ・アーレントの「なぜ普通の人が「悪」に加担してしまうのか」という問いが気になった。俺が最近考えていることと関係するからである。同じように「なぜ普通の人が「善」に加担しうるのか」とも問えるはずである。
「ほかの学問が具体的なテーマに対して答えを明らかにしていくのに対し、哲学は「問い」を深めていく営みです」(p.12)。
「長い歴史の中で哲学は、探求すべきテーマをいくつかの柱に整理してきました。大きく分けると形而上学(存在論)、倫理学、認識論の三つです」(p.13)。
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