笠井潔著2023年01月11日 23:15

 矢吹駆シリーズ。このシリーズはたぶん一冊だけ読んでいる。タイトルは確か『なんとかアポカリプス』。何十年も昔なので内容はあまり覚えていない。『哲学者の密室』は読んでない。全部読んだ方がいいだろうなあ。笠井潔のライフワークだからなあ。でも一冊一冊が分厚いんだよなあ。
 今回も八百頁を超えて二段組。構成は典型的なミステリー。舞台は一九七〇年代の後半くらいのパリ。川船の船室という密室で、頭部を切り取られ、体に奇妙な図形が描かれた女性の全裸死体が発見される。探偵役の矢吹駆の捜査の過程で、第二次大戦前夜のパリの物語が語られる。最後に舞台が七〇年代の現在に戻って、矢吹駆の現象学的推理によって、事件の真相が判明する。
 矢吹駆独特の現象学的推理がどのように展開するかというのが読みどころ。矢吹駆によれば、「関連する事項をつじつまが合うように恣意的に構成しただけの推理は、常識による臆断、もっともらしい当て推量に過ぎない」のであり、「現象学的な思考から導かれたのではない推論こそが、真であることの根拠を持つ」ということになる。現象学的推理によって真実が明らかになっていくカタルシスはなかなかのものである。
 この時代の思想状況がよく判るというのもこの作品の魅力の一つ。特に、第一大戦から第二次大戦前後の欧州左翼の動きがよく描かれている。
 個人的には、俺は初めて現象学的存在論が理解できた気がする。現象学では、認識に関して、存在の問題を括弧に入れる、つまり判断を保留する、ということで何が明らかになるのかよく判らなかった。これは、存在の問題を保留して「意味を見る」ということが重要だったのだ。
 もしかしたらフッサールはそんなこと言っていないかもしれないが、俺の考えでは意味というのは関係のことである。個々の事物の存在可能性は低くても、関係性の網は存在性が高くなる。一つ一つの事物は嘘の可能性があるとしても、複雑に関係し合っている全体が嘘である可能性は低くなるという理屈である。現実にも、真実を知ろうとするときには、多くの資料を相互参照するものである。絶対確実なものを見つけ出そうとしたデカルトとは逆の行き方。
 もちろん、どんなに多くの事物を関係づけても、実在可能性は百パーセントにはならない。全てが緻密に構成された虚構である可能性は残る。数学の極限の技法の類推でいくと、無限の事物が関係し合っていれば、実在可能性は百パーセントになるかもしれないが、残念ながらと言うか、宇宙は有限である。事象の地平面の向こう側とは関係し合うことはできない。しかしまあ、この宇宙くらいの規模で精緻に構成された虚構であれば、その虚構の一部である我々にとっては、それはもう実質的に実在と言っても良いのではなかろうか。こういう進め方はデカルトは嫌うだろうが。
 この作品で大変に面白かったことの一つに、第二次大戦前「ナチズムの宗教的威力に対抗するため、それを超える霊性の高みに達しようとする」宗教的秘密結社があったという設定である。おお、呪術大戦。
 今回の殺人事件は、この宗教的な「狂気の論理」の延長線上にある。惜しむらくは、この狂気の論理の筋道はよく判るのだが、感覚的には共感できないところである。まあ、俺の頭が悪いせいもある。この狂気の論理を信憑する人の、世界観、人間観、生命観が俺にも実感できたら、つまりその視点で世界を見ることができたら、面白かっただろうなあ。
 サルトルをはじめとして実在の人物をモデルとした人物が数多く登場するが、俺には、シモーヌ・ヴェイユをモデルにしたと思われるシモーヌ・リュミエールがとくに面白かった。シモーヌは左派活動家で、冷静な態度と落ち着いた口調で論敵に容赦ない攻撃を加える一方、共感の力が当人の社会生活を困難にするほど豊か過ぎる。スペイン内戦の際に、反スターリン派に参加するが、自らの不器用さで火傷を負って帰ってくる。著者も彼女が気に入ったのか、事件への直接の関わりは大きくないのに、彼女の描写にかなりの紙数を費やしている。
 この後、矢吹駆と彼のライバル、ニコライ・イリイチとの現象学的呪術対戦が始まるのなら、シリーズ全部読む価値はありそうである。

エレナー・エスティス著『モファット博物館』2023年01月13日 22:01

 モファットシリーズ完結巻。第三巻と完結巻の間は、作品内では一年だが、執筆の間隔は四十年も空いている。しかし、モファット家の子供たちもママもいつもの通りで、何の不連続感もない。今回の話題の中心は長女シルビーの結婚と、モファット家のプライベート博物館の設立である。
 ジェーンの発案である「モファット家のだれか、または何人かにとって、あるいは家族全員にとって、大切だったもののコレクション」(p.10)という着想は素晴らしい。子どもたちのさまざまな経験に伴って博物館に収蔵される「文化遺物」が増えていく。
 今回も、子供たちがひどく追いつめられるような、大きな葛藤は生じない。そう意味ではエピソード毎のカタルシスは小さい。また、ちょっと意地悪な子供や、趣味の悪い冗談を言う大人は出てくるが、悪人も出て来ない。微温的と言えばその通りである。しかし、ほのぼのとした温かい読後感はなかなか良い感じである。何よりも、子供たちの心情が現実感を持って生き生きと描かれているのが、あらゆる欠点を補う。

メーテルリンク著『青い鳥』2023年01月15日 23:03

 チルチルミチル。子供のころ絵本で読んでいるのだが、探していた幸せの青い鳥は自分の家に居た、という何やら教訓的な結末だけを覚えていて、そういう説教くさい話だという印象を持っていたのだが、全然違った。原作は戯曲だということも知らなかった。舞台を想像しながら読むせいか、異様に色彩鮮やかなイメージが展開して幻想的である。
 貧しい木こりの家の兄妹のチルチルとミチルは、魔法使いのお祖母さんに頼まれるというか命じられて、青い鳥を探しに異世界への旅に出る。
 チルチルがお祖母さんにもらった魔法の帽子の力で、人間には見えない動物や物の真の姿が見えるようになる。見えるようになると書いてあるが、どうやら動物や物の中に隠れていた「精」達が表に出てくるらしい。さまざまな動物や物の精が次々に現われてくる場面の、目くるめくにぎやかさは素晴らしい。そうして、飼っていた犬と猫、パンと砂糖、火、水、そして光の精とともに、チルチルとミチルは旅に出る。
 思い出の国では、死んだ祖父母や弟妹達に遭い、夜の御殿では様々な恐怖や幽霊、闇などが閉じ込められた部屋で鳥を探す。森では、木こりの子供であるチルチルとミチルは、さまざまな樹木の精に仇として責められる。墓地で、帽子の魔法を使って真の姿を見ると、死んだ人なんかいない、ということが判る。
 幸福の国では、最初に「金持ちの幸福」「ものを所有する幸福」「満足したみえっぱりの幸福」などに出会う。立派に見えた彼らも、チルチルが帽子の魔法を使うと、醜くみっともない真の姿を現す。そして、真に美しい「子供たちの幸福」や「健康の幸福」「きれいな空気の幸福」達に出会い、最後に「母の愛」に出会う。未来の国では、これから生まれてくる子供達に出会う。
 いくつかの国でチルチルとミチルは青い鳥を捕まえるが、その国を出ると鳥たちは色が変わってしまったり、死んでしまったりして青い鳥は手に入らない。それぞれの国で意味ありげな象徴的人物が意味ありげな言動をとるが、単純な「これが正しい」という教訓は示されない。大人でも判らないのだから、想定観客である子供達にはなおさらであろう。つまり判らなくて良いのである。カラフルなイメージとともに展開する子供向けの不条理。
 チルチルミチルについてくる動物や物の精のうち、活躍するのは光と犬と猫だけで、火、水、パン、砂糖は重要な役割を果たすことはないのも、ちょっとシュールな感じだが、これは意図的なものではなく構成の失敗であろう。
 また、チルチルとミチルに悪意はないが、不誠実な猫の言葉を信じて忠実な犬を責めたりして、暗愚なところがあり、理想的な子供というわけではない処も面白い。
 訳者あとがきによると、日本ではよく知られた『青い鳥』だが、本国のベルギーやフランスではほとんど知られていないそうである。

レベッカ・バクストン+リサ・ホワイティング編『哲学の女王たち もうひとつの思想史入門』2023年01月17日 21:53

 哲学研究は白人男性のものであるというイメージを払拭する、哲学の歴史に大いに貢献した女性哲学者二十人を紹介する。その中には、アフリカ、中国、インド、ムスリムなども含まれる。特に近現代の女性哲学者では、分析哲学や形而上学の研究者は少なく、倫理学、フェミニズムなどの研究と同時に市民活動や政治活動を実践している人が目立つ。知っている名前はボーヴォワールとハンナ・アーレントしかなく、不勉強を痛感する。
 ハンナ・アーレントは黒人差別的な発言をしていたという話が面白かった。ユダヤ人に対する態度と黒人に対する態度の矛盾に、ハンナ・アーレントほどの知性が気付かなかったことは不思議だが、フロイト風に言えばそこには抑圧があったのではなかろうか。つまり、気付かなかったのではなく、気付きたくなかった。
 他には、十四世紀カシミールの女性ヨガ修行者、ララが興味深い。ララは、ヨガのヒンドゥー教的世界観に、仏教やイスラム教の思想を取り入れ、二元論的な世界解釈を否定した。
 全体に個々の女性哲学者の業績以上に、男性中心社会の「女性の知性の高さを認めまいとする態度」の強さ、頑なさが印象に残った。

岡山敬二著『わからなさを生きる哲学』2023年01月19日 22:24

 題名に惹かれて読んだ。たぶん「わからなさをわかるというやり方以外のやり方で解決する、わからないまま引き受けて生きる」というような内容を期待したのであろう。そういう本ではなかった。大学の一般教養科目としての哲学の講義をもとにした、哲学入門書。人間、時間、「私」、心と体、死といった主題を、哲学はどのように扱ってきたかを、判りやすい言葉で解説したもの。
 俺としては、フッサールの「現印象・予持・把持」、メルロ=ポンティの「現前野」といった、連続した過去と未来を含む現在観がすっきり判ったのが収穫だった。
 文章はややへたくそな印象。入門者向けとしては飛躍が多くて、話の筋が辿れない部分が多いように思う。考え方として、実験や観察に基づく自然科学的方法と、哲学あるいは現象学的な内省的な方法がごっちゃになっていて、混乱するところもある。
 また、日本人向けの入門書の場合、西欧人特有の問題はもっと省略しても良いように思う。神の問題もそうだが、ハイデガーの「現存在以外の存在はすべて道具的存在である」という考え方などは、アニミズム的自然観を持つ東洋人には判りにくい。ハイデガーの「死へ臨む存在」についても、「特権的な瞬間」の回復や「本来的時間性」ということが強調されているが、死によって意識される生の有限性という視点の方が日本人にはピンとくるのではなかろうか。
 全般にハイデガーは東洋人には判りにくいんだよ。死の不可能性とかさ。そこいら辺の解説をもっと工夫するとさらに良くなるのでは。と口で言うのは簡単だが。