『現代思想2020年1月号』から ― 2022年08月01日 21:45
2021年10月 9日記す。
脇坂真弥「人間の生の≪ありえなさ≫ シモーヌ・ヴェイユの「不幸」の概念を手掛かりにして」。
「この問い(なぜ私なのか)を叫ぶ者は、自分の不幸の転落において自分が弱すぎたこと、すなわち「私が≪この私≫であること」がその状況に対して全く無力であったことを目の当たりにし、激しい自責の念に駆られている。だが、このとき同時に、その人はそれとは全く逆の事態にも直面していた。それは、自分が転落の閾値に立つよう選ばれたこと自体がそもそも偶然だったこと、すなわち「私が≪この私≫であること」は無力であるどころか、最初からカウントさえされていなかったという事実である。しかし、この事実を知ることは、当事者の自責の念をいやすことはない」(p.110)。
「不幸が本質的に偶然なものである以上、そこへ転落する可能性を免れている人はいない」(p.111)。
このエッセイとは直接関係ないが、次の仮説を思いつく。「積極的に悲しい目や怖い目に遭いたいと思う人はいないのに、悲劇映画やホラー映画を見に行く人が少なくないのはなぜか」という問いがある。それは「人間の生は本来的に悲しく恐ろしいものなので、他者の悲しみや恐怖に寄り添うことで、それがいくらか慰められるから」ではないか、という仮説というか妄想である。
脇坂真弥「人間の生の≪ありえなさ≫ シモーヌ・ヴェイユの「不幸」の概念を手掛かりにして」。
「この問い(なぜ私なのか)を叫ぶ者は、自分の不幸の転落において自分が弱すぎたこと、すなわち「私が≪この私≫であること」がその状況に対して全く無力であったことを目の当たりにし、激しい自責の念に駆られている。だが、このとき同時に、その人はそれとは全く逆の事態にも直面していた。それは、自分が転落の閾値に立つよう選ばれたこと自体がそもそも偶然だったこと、すなわち「私が≪この私≫であること」は無力であるどころか、最初からカウントさえされていなかったという事実である。しかし、この事実を知ることは、当事者の自責の念をいやすことはない」(p.110)。
「不幸が本質的に偶然なものである以上、そこへ転落する可能性を免れている人はいない」(p.111)。
このエッセイとは直接関係ないが、次の仮説を思いつく。「積極的に悲しい目や怖い目に遭いたいと思う人はいないのに、悲劇映画やホラー映画を見に行く人が少なくないのはなぜか」という問いがある。それは「人間の生は本来的に悲しく恐ろしいものなので、他者の悲しみや恐怖に寄り添うことで、それがいくらか慰められるから」ではないか、という仮説というか妄想である。
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