養老孟司著『ヒトの壁』2022年09月13日 21:49

2022年 1月31日読了。
 新潮新書。
 「情報にもエントロピーの第二法則が該当するとすれば、現代の混迷がよくわかる。なにかがわかったということは、別なことが同じくらいに、わからなくなったということだからである」(p.30)。
 「私はヒトが集中するから都市を作るなとか、わからないことを増やすだけだから、研究なんかするなと言うつもりはない。どちらにしても限度がありますよ、と述べているだけである。その限界を見切っていますか、と言いたい」(p.32)。
 「根本問題は大都会に代表されるヒトの秩序志向、あるいは秩序嗜好にある。「ああすれば、こうなる」がはっきりしている社会だ。その根源はヒトの意識としいう秩序活動にある。じゃあどうするか。秩序を高めようとしなければいい。それが真の省エネである。合理的、効率的、経済的にものごとを進行させよる。それ自体の非合理性、非効率性、非経済性は、コロナ騒動でよくわかったのではないか」(p.32)。
 「単純に生産=お金=価値と考える状況では、お金の価値が下がることは、生産とという仕事に専念する人たちにとって、人生自体の価値の低下を意味する。歳をとればいやでも低下するんですけどね」(p.38)。
 厚生労働省の「令和二年人口動態統計月報」によれば、十代から三十代の若者の死因のトップは自殺だそうである。人生に価値を見出せず自殺する。どうすればいいか。「要するに価値観を情勢に応じて自分で変え、自分なりに持つしかない。それを自立といい、成熟という」(p.40)。
 「生きるとはどういうことか、生きる価値はどこにあるか。これは哲学でもなんでもない。まさに具体的な自分の生き方である。すでに構築されたように見える社会システムに寄りかかってもいいけれど、それならそのシステムと共倒れの覚悟が必要ではないか」(p.40)。
 「国家とは政治体制ではない。実質的には供給能力の総和である。安全保障の根幹は供給能力であろう。(略)中でも日本国の場合、最大の問題はエネルギーである。それは戦争中と変わらない」(p.45)。
 「日本という国家はとくにはっきりした将来の問題を抱えている。それは今世紀半ばまでにと予測されている東南海地震と、いつ来るか分からない首都直下型地震である」(p.47)。
 「グローバル企業は経済原理として災害対策はしないであろう。余分な医療供給能力なんか準備するはずがない。当座の経済的利益に資するわけがないからである」(p.47)。
 「世界を一言で言いつくしたい。そう思うのが学者の癖で、それはわかりきっている」(p.51)。
 理性が信仰を排除することについて。「ただしそこでよく忘れることがある。排除したはずの信仰が、理性信仰として本人の中に居座ってしまうことである」(p.56)。
 「ふつう理屈は客観的だと思われているけれど、「主観的な」理屈をたいていの人は聞いた覚えがあるはずである。まことに「理屈と膏薬はどこにでも付く」のである」(p.66)。
 理解と解釈の違いについて。「「ああそうだったのか」と、「理解」は向こうからやってくるが、「解釈」はもともとこちらの都合である。こちらが勝手に解釈する。この意味で理解というのはより感覚系に近く、解釈はといえば、運動系に近い。理解は感覚の延長であり、解釈は運動の延長である。ただし両者は方向、つまり向きが違う。理解は外から中へ、解釈は中から外へ、である」(p.71)。
 運動系の相反する二つの性質について。「一つは合目的に行動することである。目的が定まれば、考えないで一直線に進行する。日常的に繰り返される動きは、歩くことのように、ほぼ無意識に、自動的になる。/もう一つは試行錯誤である。(略)人間の日常で言うなら、ラーメンにしようか、カレーにしようか、食ってみなけりゃ、本当に食いたいものはわからない、というようなことだろうか。われわれの日常は、この両極の間を往復している」(p.75)。
 「広い文脈でとらえれば、「意味」とはある何かの体系のなかでの位置づけのことである」(p.78)。
 「ここで重要なことは、「意味は外部(の体系、システム)を召喚する」ことである。意味そのものが独立して存在しているわけではない」(p.78)。
 「この点は生物学における「機能」と同じである。機能とは合目的的に解釈された生物の行為または構造のことである。「この器官はこのためにある」「この行動はこのためである」という解釈に基づいて、私たちは機能を定める」(p.79)。
 「理解はしばしば意地が悪く、解釈は善意、悪意とどちらでもすぐに結びつく。頭のいい人はしばしば意地が悪いが、それは状況をよく理解しているからである。解釈力の強い人はおせっかいになりやすい」(p.83)。
 「ここでは感覚という入力系と運動という出力系に分けて考えている。入力がいわば「折れかえって」出力に変わると考えると、入力から出力へへ変化する折り返し点がどこかにあるわけで、それが「自己」の位置になる。この「自己」はあくまで点であって、内容はない。自己になにかの内容を持たせると、そこに自己言及の矛盾が発生するらしい」(p.88)。
 「いわゆる「歴史的必然」という考え方の前提は、歴史には法則があって、それに従って物事が起こると解釈する、つまりこれは歴史を「予測と統御」の世界に持ち込もうとする態度である。そんなもの、成り立つかどうか、本当は知るすべもない、と思うけれどどうだろうか」(p.155)。

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