柴田元幸編訳『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』2021年12月26日 23:05

20年 2月 8日読了。
 柴田元幸による、九人の作家へのインタビュー。
 アート・スピーゲルマン「つまりね、『マウス』は、メタファーを使って歴史的な問題にたどり着こうという試みだった。一方ベニーニの映画(『ライフ・イズ・ビューティフル』)は、歴史をメタファーに変えてしまおうという試みだ。そこでは『アウシュビッツ』は単に『嫌な体験』『悪い時代』の同義語であり、そうやってすべてを一般化することによって、歴史は心底些細なものに変えられてしまっている」(p.59)。
 リチャード・パワーズ「(読書という行為について)自分の言語であっても、やはり翻訳しているのです。それまで全然知らなかった物語を、これなら知っていると思える物語に訳している。そして、それと同時に外から入ってくるその物語を受け入れるために、自分の物語、自分という物語も翻訳しているのです。他人の物語を理解するために、自分の物語を書き換えるわけです」(p.143)。
 パワーズ「読むだけじゃない、生きる行為と言ってもいいんです、生きるというのはある意味で世界を読むこと、世界というテクストを読むことですからね。そしてこの読むという行為は、つねに能動的な営みなんです。本が我々読者に対して何かを為す、そのあいだ我々は黙って寝転がっている。でも実はそれはすごく忙しい、全然受け身なんかじゃない、双方向的なプロセスなんです」(p.145)。
 パワーズ「これまでかなりのあいだ、純文学といえば、価値観を肯定するというよりはその虚偽を暴くもの、という時期が続いていました。それが今、アイロニーを通して価値を切り崩す必要なしに、本当に感じ、意味を築き上げる様式に戻ることは可能か? そうみんな考えはじめて、たくさんの人がその道を模索していると思うんです」(p.153)。
 カズオ・イシグロ「(『わたしたちが孤児だったころ』について)読者は混乱するかもしれないけれど、いかにも正気でノーマルな世界で一人の狂人を生きさせるのではなく、いっそ作品世界全体を、その男の奇妙な論理にしたがって歪ませ、その論理にしたがって動かしてみたらどうだろう、と思ったんです。つまり、彼のまわりの人間みんなが、彼の狂った世界観を受け入れる。そして物理次元でも、世界が彼の恐れや望みに合わせて動き出し、変わり出す」(p.215)。
 村上春樹が、作家と読者の関係について、何か作家と読者に共通のオルターエゴ(第二の自己、別の自己)のような物を設定して介在させるべきだということを言っていたのが興味深い。村上は「うなぎ」と言っていたが。
 アメリカ文学史も勉強したいなあ。

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