養老孟司著『私の脳はなぜ虫が好きか?』2020年07月12日 21:26

16年 7月21日読了。
 虫に纏わるエッセイ。
 「一番重要なことをまず決める。それさえ決まると、あとは自動的に決まる。本当に機能することが要求されている場合には、必ずそうなるのである。その優先順位が決まらないのは、本当はどうでもいいことだからである」(p.18)。
 「虫が大切。それがまず決まれば、あとは自然に決まってしまう。世の中の人は、ふつうはその種の見方ができなくなっている。世間では虫好きは世間知らずだと思っているが、見ようによっては、世間の人が人生知らずなのである」(p.19)。
 「生物は環境に依存して生きる。これだけ環境を変えたヒトという生物が、自分だけ変わらないで済むなどと思っているのだとしたら、ずいぶん気楽なものだというしかない。そんなことがそもそも可能なはずがない。環境変化が遺伝子操作という技術の形でヒト自信の身に直接及ぶとき、はじめて人間は、自分のしてきたことを『身につまされて』考えるであろう」(p.61)。
 「ツルカナ湖西岸とは、どんなところか。ナイロビの空港でつれづれなるままに買った英国の案内書を読んだ。たしかにツルカナ湖西岸という項目がある。まず『ここには見るべきものはなにもない』とある。次いで『ここまで来たという達成感が唯一の報酬となる』とある。ここに行こうと決めたのは、ディレクターの高城氏である。どういうつもりか、それは知らない」(p.152)。
 「多様性とは、単に虫の種類が多いということではないであろう。多種類の生物が、全体としてある構造をなして暮らしている、そういう状況をいうのだと思う。だから種が絶滅すれば、その構造が変化する。こうした構造を生態系と表現するのがふつうである。しかしその生態系を具体的につかまえようとすると、きわめてむずかしい」(p.143)。
 「仮に数キロメートル程度の生態系の単位があるとすると、その境界とはなんであろうか。そうした境界がなぜ崩れないのか。それともたえず崩れながら、再建されるのか。そもそも生きものの単位を種とか個体と考えていいのだろうか。ある生態的な単位に含まれる全種の全個体が、なんらかの構造を全体として組み立てている。そう考えたほうが『生態的』ではないだろうか。比喩としていうのは簡単だが、それを実際にモデルとして組み立てるのは、容易ではないはずである。因果なことに、そういう厄介なことを考えるのが、私の趣味なのである」(p.145)。
 「やりたいことを、やればいいじゃないか。そういうと、あなたはできるからいいですよと言い返される。できるもできないも、やらなきゃ、なにもできないのである。あらかじめ自分にはできないと、どうして思うのか。それがわからない」(p.156)。
 「だから意地悪く言うなら、痛いとか苦しいとか、そういう症状が出ればシメたものである。やっと医者の言うことを聞く気になる。ただし、そのときは手遅れかもしれない。それが環境問題なのである」(p.167)。

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