笙野頼子著『一、二、三、死、今日を生きよう!──成田参拝』2019年12月02日 21:36

15年 6月22日読了。
 エッセイとも小説とも付かぬ作品集。時期としては「だいにっほん」三部作を書く直前くらい。成田闘争を垣間見る取材や飼い猫の死などが描かれる。
 著者は抑圧者の抑圧その物以上に、抑圧に無自覚な事或いは気が付かない振りをしている事、なかった事にしようとする事、つまり誤魔化す事、誤魔化しながらエバっている事に腹を立てているようだ。そして、そのような日本の権力構造の成立過程を宗教史に求めている。
 身体性という言葉が何度か使われている事が俺には興味深かった。「だいにっほん」三部作では、多く内面という言葉で表現されていた物である。内面と身体では逆ではないかと思うかも知れぬが、笙野が内面とか身体性とかいう言葉で表したかったのは、形式に対する「実感」の如き物であろう。抑圧者は「形式」に依って「実感」を押し潰しに来る。
 俺としては「身体性」の方がしっくり来るが、まあ言葉の選び方は(そして文章その物も)最終的には作家の生理が、それこそ身体性が決める事だから、他人がとやかく言う事ではない。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://castela.asablo.jp/blog/2019/12/02/9184276/tb