梨木香歩著『エストニア紀行 森の音・庭の木漏れ日・海の葦』2019年08月26日 21:21

14年10月30日読了。
 題名通りのエッセイ。
 「どうも、エストニアの人々は──郡部に行けばもっと際立ってくることに──神秘的でパワフルな『未開』、洗練された『野蛮な情趣』を追求してそれを民族の誇りとしているようなところがあるのだ。それが私にはとても爽快で好ましく、魅力的に映った」(p.37)。
 「じっとしていると、ときどき自分が人間であることから離れていくような気がする。人が森にあるときは、森もまた人にある。現実的な相互作用──人の生み出す二酸化炭素や持ち運ぶ菌等が、森に影響を与え、人もまたフィトンチッド等を受け取る──だけでなく、何か、互いの浸食作用で互いの輪郭が、少し、ぼやけてくるような、そういう個と個の垣根がなくなり、重なるような一瞬がある」(p.67)。
 「そのとき私がいたエストニア西部から二日ほど南へ車を走らせたところに、ヨーロッパ最大の野性動植物の聖地があった。近年、生きたクロライチョウがそこで観察されるようになったという報告を読んだことがあった。その夢のような『聖地』では、ヨーロッパバイソンが群れをつくり、モウコノウマが繁殖し、イヌワシがトビのように頻繁に空を舞い、オジロワシが営巣する──ウクライナ、ベラルーシに跨がるチェルノブイリ放射線汚染地帯、立ち入り制限区域である」(p.144)。
 「ヒトが生活する、ただそれだけで、多くの生物が死に追い遣られている。放射能汚染より遥かにシビアに」(p.145)。
 「鳥はいつも、何かを告知する使者のように、その人の人生に忽然と現れる」(p.147)。
 「生物の多様性ということと、人間の人口の増減ということの間には、見て見ぬふりはできぬ関係が、歴然としてあるのだった」(p.161)。
 「過去に類を見ない『大量虐殺』だ。同じヒトという種の身の上に起こっている、アフリカでのできごとにすらなかなか共感を持ち得ない『ヒト』が、他の生物の身の上に起こっていることを共感するなんてことが、いったいどの程度可能なのだろう……」(p.188)。
 「たぶん一生、追いつきもせず到達もし得ず、ことばに表現し得ることもなく、徒に歳月を費やし最後までただ焦がれるだけの、ほんとうは実体も分からない、そういう遥かな対象を持つ事──そういうことをずっと、自分の抱え持つ不運な病理のように感じていた。とても肯定的には捉えられなかった」(p.189)。
 「『熱』に浮かされることなく、それを体内の奥深く、静かに持続するエネルギーに変容させていく道があるのではないか。長い時間をかけても」(p.190)。
 「祖国は地球」(p.191)。

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